はじめに
広島に原子爆弾が投下されてから今年で七十三年目を迎えます。熱線と爆風により一瞬にして何万人もの命を奪い、その年の暮れまでにおよそ十四万人もの命を奪った原爆は、今に至るまで被爆者を放射線による後障害等で苦しめています。核兵器は人類史上最も凶悪な兵器であり、その廃絶は全人類の願いでもあります。このようなことが再び繰り返されることのないよう、日本は非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現を訴え続けることが、今を生きる私達に課せられた責務だと思っています。
毎年八月が近くなると原爆が投下された日の光景が思い出されますが、一方で危惧されるのは風化という言葉です。当時の「細かい」ことなどが年を重ねるごとに薄れ、あの時どうだったかな、と思うことが多くなっていることも事実です。
原爆の被害
一九四五年当時、私は五歳で、両親と三歳の弟の四人家族でした。我が家は爆心地から九百メートルの距離にありました。八月六日月曜日は朝から快晴で、私は幼稚園に行くため母の後ろについて玄関を出た瞬間でした。「ピカ」という閃光と爆風で、何秒か何分か気を失いました。母の呼ぶ声で気がつくと、家は壊れ、家族は全員、家の下に掘ってあった防空壕に落ちていました。暗闇の中で互いに声を出し合い、手を取り合い、地上に出ると、全ての家が倒壊しており、道も分かりませんでした。
私達は家から三十メートル先の天満川へ、倒壊した家が重なり合った上を歩いて逃げました。やっとのことで雁木(船着場に続く階段)にたどり着くと、そこは黒く焼け焦げた人々で足の踏み場もありませんでした。五寸釘が目に突き刺さり、顔が血だらけの人もいました。地上では倒れた建物から火が出てどんどん広がって行くので、私達は川へと降りました。途中、私は大やけどをした黒い手で足を掴まれ、「水をくれ、水をくれ」と、うめくような小さな声で訴えられてびっくりしました。その人の皮膚は「ずるむけ」で、掴まれた足がするっと抜けるような状態でした。父に「水をあげようか」と尋ねると、「水をあげると死んでしまうので、あげない方がよい」とのことでした。
川へ降りると、満潮を過ぎて間もなかったので、私は首まで水に浸かる状態でした。上流から黒く焼けた材木が流れてきたので、父が一本拾って川岸に立てかけ、また、流れてきた布団を材木の上にかけて、私達は布団の下に隠れて燃え盛る炎や夏の暑さから身を守りました。
被害者の苦しみ
引き潮になると、昔父が「何かあったら」と己斐の山奥に小さな家を建てていたので、そこへ避難しました。天満川、福島川、山手川を横切り、死体がいっぱい浮いている川を縫うように進みました。
山奥の家はしっかり建っていましたが、ガラスなどは破損し、野菜やサツマイモの葉の上にガラス片が散乱していました。その野菜を何とかして口にしましたが、段々と体は弱り、食べる物も無くなりました。父といっしょに町に出て食料を調達して戻りましたが、それも長くは続きませんでした。
母は熱線により前面上半身を中心にやけどを負い、痛みをこらえていました。また、髪をとくと櫛に髪の毛がドッサと抜け、鏡を見ながら泣いていたのを覚えています。その後、続いて父、私、弟の順に髪の毛が抜け、家族全員が丸坊主になりました。家の周りに植えていたドクダミ草を手でもんで傷口に付けたり、お茶の葉にして飲みましたが、私達には効果はありませんでした。そして傷口からはウジがわき、両親が箸で一匹ずつ取ってくれた時の光景を思い出すと本当に悲しいことでした。
日が経つにつれ体力は無くなり、十一月か十二月頃、父親と私と弟は竹原の叔母の所へ、母は三原の叔母の所へ身を寄せることになりました。三か月位面倒を見てもらいましたが、そこには病院もあり、食べる物も不自由なく、叔母家族からも大変良くしてもらい、今日命があるのは叔母達のお陰だと感謝しています。
その後、母と広島駅で再会し、子ども心に大変嬉しかったことを覚えています。全員で山奥の家に帰り、元気を取り戻しました。山から見る市の中心部の様子は、見渡す限り焼け野原で、原爆ドーム、本川国民学校、原爆投下目標の相生橋などが残っているのが見えました。
市内の元の所に家を建てるため、父と私は毎日のように自宅の焼け跡の周囲で必死に材料を集め、私も手伝って一九四六年の三月か四月頃、黒い家ができました。ただ、昼夜となく我が家の近くで兵隊さんのような人が担架で黒い死体を運んで来て焼いていました。それは数えきれないほどの人数でした。また、そこから出る異臭は何とも言えず、その光景は残酷でした。
原爆への思い
私は原爆という非人間的な過ちを大きな声で叫び続けたい気持ちで一杯です。
あの苦しみが未来永劫語り継がれることを願い、また風化させないために次の世代の人々に語り続けることが最も大切なことだと思います。そうすれば、必ず世界恒久平和に届くものと確信いたします。 |