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広島で被爆したこと 
石田 徹(いしだ とおる) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島第2陸軍病院 三滝分院(広島市三滝町[現:広島市西区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は、まだ二十歳になるかならない時、昭和二十年八月六日、広島で原子爆弾に被爆し、多くの人々、友人、特に二人の親友を無くしたことは大へん悲しいことです。

昭和十九年九月一日、もうすぐ満十九歳になる時、名古屋市にあった中部二部隊に入隊しました。

当時、私は愛知県西加茂郡高橋村に一家で名古屋市から疎開のために転居し、伊保小学校に代用教員として勤めていました。

昭和十九年といえば、日本は第二次世界大戦も末期で戦況は益々悪化していました。

兵役も満二十歳からの入隊がその年から十九歳に変更され、十九歳直前の私は中部二部隊に入隊することになりました。

夏休みを利用して、同僚と木曽御嶽山に登山して帰宅したら、母が
「とおる、たいへんな通知が来ているよ。」と赤紙を差出しました。あと一週間足らずで入隊する召集令状です。

九月一日村の人々に送られて、母と二人で名古屋市内にある中部二部隊兵舎へ向かいました。名古屋城近くの門前で母と別れて、入隊した時、母の気持ちはどんなだったでしょうか。

入隊後も体力のない、ハキハキしない私は台湾の部隊へ移動することになり、鹿児島まで列車で行きました。鹿児島に着き、乗船前に健康診断があり、私は病気の為に乗船はできずに鹿児島陸軍病院城山分院に入院させられました。

鹿児島は米軍のB29の爆撃が激しく、病院も爆弾投下の虞れがあるということで転送されることになり、病友、秋月さん、千田君などと共に別府鶴見岳山麓の美しい高原にある病院に転送しました。戦時中とはいえ、空襲もなく、落ちついた病院生活で千田君が作詩、秋月さんが作曲した歌曲を三人で口ずさみながら高原散歩をしたことは夢のように思い出されます。その折に千田君が作詩した一つを書きますと

すすきの野辺

すすきの野辺を 行くときは

尾花のうれの かたなびき

けぶるとみえて うたったよ

すすきの野辺を 行きしとき

なびく尾花に まぼろしの

母をしたいて こいしみぬ

すすきの野辺は 今しらず

尾花はさきて なびけども

まぼろしの母 かげもなし

そして、昭和二十年七月下旬、広島がまだ空襲されていなかったからでしょうか、広島へ転送されました。広島陸軍病院横川分院、国鉄横川駅に近い所です。

八月六日の朝、朝食後、今日は体調もよいから院内を散歩でもしょうと、一人で庭へ出て歩きはじめて間もなく、雲一つない真青な大空に爆音もないB29を見かけた瞬間数メートルふきとばされ、木造の建物が倒れ下敷になり、これはいけないと、材をおしのけて、全身が熱いので、井戸ポンプの水をかけていたら木造病舎の全体が倒れ、どこということなく火を吹きはじめたので、火にまかれては大変と病院前の橋を渡って逃げました。

病院を出た途端の光影は地獄絵を見るようでした。市内中心部から逃げてきた人々は、両手を肘のところから上にあげ、頭髪は焼け残り毛は茶色に変色し、目は僅にあけられ、顔、手の皮膚はブヨブヨにたれさがり、焼けのこった衣服がへばりつき、その場で、ばたりとたおれ「みず みず」「みずをください」という声、その声が聞こえなくなったと思うと、もうお亡くなりになっているのです。私も、はじめのうちは焼け野はらをあちら、こちら彷徨したが、そのうちに黒い雨がふりだし、白い病衣はうす黒く染まってしまいました。黒い雨は一時間ぐらい降ったでしょうか。病院の人たちはひとかたまりになってその辺にすわりこみました。私の病友も一グループとしてあつまってきました。私は両足が焼けた為、歩けなくなり、焼け野はらにねたきりの状態になりました。秋月さん、千田君が何かと世話をしてくれました。ふとみると、すずめでしょうか、とぶこともできないでヨチ、ヨチと歩いたと思ったらバタリとたおれてしまいます。みんなでこの爆弾はどんな強力なバクダンだろうか、きっと町全体に沢山のバクダンをばらまいたのではないかと話し合っておりました。見るかぎり、焼け野原となり、近くの山々はまだまだもえております。最初のうちは食べものもなく、川の水をくんでもってきてくれました。二、三日後からは乾パンやおにぎり、水が配給されるようになりました。

私は焼け野原に寝ころんだまま歩けないし、両足の焼けどのところから膿が出はじめ、うみの中にうまっているような姿勢で一日、一日と過ぎて行きましたが、千田君、秋月さん方友人がよく世話をしてくれました。

八月十五日の朝、転送されることになり、担架にのせられ、プラットホームだけのこっていた広島駅に送られ客車の中に入れられました。千田君、秋月さんとは生き分れになってしまいました。

その時、プラットホームで一人の軍医さんが、日本刀を振りまわして「そんなバカなことがあるもんか」とあばれまわっているとのこと、なぜかと看護婦さんに聞いたら、今、ラジオで天皇陛下の玉音放送があり、日本が敗戦したとのこと。列車は動きだし、中国山脈の中頃にある中三田というところの小学校が仮病院となり、教室の一隅に寝かされました。でも、被爆者たちの中から「看護婦さん………高いとろへあげてください」といいだすと、その方々は間もなく亡くなって行かれました。そして、運動場にはご遺体がおかれ、日々数がふえてゆきました。その後広島駅でさけんでいた軍医さんも被爆症で亡くなられたと聞きました。

九月からは学校の授業が始じまるので中三田の校舎から厳島神社が瀬戸内海をへだてて見える大野浦の陸軍病院に送られました。

九月十七日でしたか、夜、室戸台風が近づき病院背後の山が動きだす山津波におそわれ、一瞬にして病舎の殆どは瀬戸内海に流されてしまいました。私は幸い命びろいをしましたが、五百人以上の方々が亡くなられたと聞いています。(その中には、京都大学から来てみえた、お医者さん方、二十人以上の先生もお亡くなりになったと聞いています。幸、助すかった私は山口県宇部にある山陽荘に送られ、十月下旬に愛知県の家に帰ることができました。

原子爆弾はその後も、平和の為ということで強力なものがどんどんと作られ、現在では数ヶ国の国々が所有しているといわれています。

もし、一人の異端者が、発射スイッチを押すようなことがあったら、沢山の国々、人々の生命、大切な自然が消えてしまうことでしょう。どうかそんな兵器がなくなり、戦争がなく世界の人々が共に助けあい、励ましあって、文明、文化が発展し、この宇宙、地球、自然、人間など生きものが存在できますようにと祈っております。

(別記)
その後、自宅に帰った私は、被爆後の体力を回復しなければいけないと、戦後の食糧不足の折に、父母が努力してくれたことは感謝にたえません。

農業経験のない父が狭い土地にさつまいもを栽培したり、母がお百姓さんの家に手伝いに行き、お米を分けていたゞいたり、又美しい母の着物がお米に変わったりしました。

じゅうぶんではないが少しばかり体力が出きた私は昭和二十二年九月一日、愛知県立西加茂郡石野村立上鷹見小学校、教員として就職し、後に京都へ転勤し五十有余年にわたり、教師生活が続けられたことは感謝の気持ちでいっぱいです。

最後に大へん残念なことですが、終戦後故郷に帰った千田君(鹿児島市)秋月さん(大分市)に帰省後間もなく被爆症で亡くなられたとのこと、ただ、ただ、ご冥福を祈りながら、原爆がなくなることを願って祈っています。


  

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