初めに字が分らないのですみません。
十年前から夏が来ると広島げんばくを想ひ出し一通便りを元気なうちにとようやく書く事が出来ました。
げんばくで亡なったおじは少し子供の時はこわい人でした。ですが、私が四年生の時にマムシにかまれて昔の事ですから病院ではなくて(マジナイ)でした。
それも遠い山の上の方にあるお寺まで三輪車にのせて行ってくれました。お蔭様で二週間学校をやすんだだけでなをりました。
おじは広島のどこにいたか分りませんがげんばくで死んだと電話か何かで通知あり、家内中が広島に向ひました。木次線―びんご落合―広島と一週間帰らなかったです。後にのこされたおじの母親とうしが一頭いました。
私の家は少しはなれた所にあり私は子供として大きい方のため毎日うしの草刈でした。
ひるからは川あそびをして夕方になってから草刈して一輪車にのせておじの家までゆき、うし小屋にゆきました。うしは腹をすかしていて顔の黒い大きいそしてこわいと想ひどうしようかとも想ひつつ草をなげこみました。今にも向って来そうでした。
そして母おじの母親は毎日蔭ぜんと云ってぼんにごはんをそなえて手を合わせていました。久しぶりに皆んなが帰っては来ましたが、私の母親が胸に白い箱をつけていました。
おじとの別れです。子供の頃の忘れられない夏の日忘れられません。あれから六十六年も経っているなんて、私も八十二才になりました。
主人もホームに世話になり先があんじられます。私も足が痛い、■■がいたいと云ってはいますがごはんは食べれます。人生ははかないものですね、おじはけん兵でした。
よろしくお願ひ申し上げます。
おじの名前は松林辰吉と云ひました。
おじの白い箱は比治山にならんでいたそうです。
石原キヨ子
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