一九四五年八月六日、国家総動員法に依り、義勇隊として広島市内建物疎開作業に出動する。
当時、私は婦人会長のため副班長として従事した。原爆が投下。瞬間、後背よりの閃光のため衣類が燃え出し、ためらう中に家の下敷になり、気がつき十分位して下敷から這い出して外に出た時、周囲は全部ダイタイ色の空気で何も見なかった。少したってあたりの空気が晴れた時、ヒロシマの街は消えて無くなっていた。当時二班の五十名の隊員を点呼して矢野へ帰えるよう命令した。その時の一緒に行った町内の人々は、ツルツルに顔から全身焼きたゞれ、皮膚が下っていた。面相が変って誰か分らない位いだった。
隊員を帰えした後、私は一人残って下敷の町内の人を堀り出すために救援に来た兵隊に頼んで二人堀り出してもらい、主人と大八車に死体を乗せて大洲の里迄、帰えった。大洲橋を渡る時は、もう死体が浮いて流れていた。主人は里の工場から私を探しに来て出会った。夕方、矢野の国民学校迄帰えった時、学校の各教室は収容場となり、全身焼けた人やケガ人がいっぱいで驚いた。つける薬もなく、油もなく、私は自分の背中の皮を切りとってもらって、責任のため走りまわって手配した。毎日、毎日、何十人と死んで行った。役目上私は、婦人会員に動員をかけて看病に配置した。
まさに人間の世の中とは思えぬ惨酷な状態だった。次々にトラックで運び込まれて来る。ヒバク者は全然、旅の人で知らぬまゝ名前も聞けす、家族へ連絡して上けようもなく死んで行った。
私は町内の医師が手が足らぬので隣町の坂の医師迄、治療に行った。その後、放射能のため無傷のヒバク者が血を吐き、脱毛し、血便を出し、死んで逝った人。一班、二班、百人の義勇隊は現在生存は私と山本さんと二人になった。
五十年たった今日、私は入退院をして苦しみながら、ふたゝびヒバク者が出ないようにと命かけで運動しています。
せめてこれが原爆死没者への供養だと思います。
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