昭和二〇・八・六 広島市に原爆投下時、私は、旧第十一海軍航空廠兵器部海田市派遣隊の海軍技術中尉で、その士官宿舎(当時、安芸郡奥海田村)に、両親ならびに弟妹と住んでいました。
昭和二〇年六月まで五〇年間、市内南区段原大畑町に居住していた家族を、無理やり私が海田市へ転宅させたような次第です。
八月六日は、父親(明一八年生れ)と妹(昭二年生れ)が広島市内に出向いて二人とも被爆し、父親は、全身やけどで当日二四時に独力で帰宅しましたが、一〇月二七日に死亡しました。妹もひどいやけどで、人の前でその肌を見せられず、原爆症で苦しみながら、生活している毎日です。
八月六日の一二時に、私は肉親探しのため海田市から広島に入り、その後四日間、引き続き、市内全域にわたり妹を探しまわりました。
「兵隊さん、水をちょうだい」と苦しそうに呼びかける悲惨な大やけどの人とも触れあいましたが、わが妹が生きているものか、どうしているものかとの思いがいっぱいで、探しまわることで精一杯でした。
当時の広島県庁、武徳殿の前は、うず高く積まれた裸の死体の山が放置されたままで、又、国泰寺付近の焼け残って煙る道路(歩道)を通った直後に、焼けた電柱が倒れかかってきて、あわやという危険も味わいました。
勿論、道路の路面は、こわれた屋根がわらとか、ガラス片でいっぱいのため、裸足で歩くなど到底考えられない状態でした。
父親は、中区銀山町、現広島銀行銀山支店一階の玄関を出たときに被爆しました。
顔面はひどく焼け、左目は開いたままで、一〇月二七日死亡まで閉じることはありませんでした。
勿論寝たきりで、家族がやわらかい患者食を作って、交代で運んでいました。戦後の食べ物がないときでもあり、又、私の妹も大やけどで寝たきりのため、家を留守にして買い出しにも出かけられず、患者の食べ物には苦労しました。
妹は、中区明治橋の上で被爆しました。広島市比治山小学校の代用教員をしていて、小学生を疎開先の廿日市へトラックで運んでいて被爆しました。江波の三菱造船社宅にいたのを私が四日目に見つけ海田市まで大八車で運んで帰りました。
自宅では痛い、痛いと泣き叫ぶ毎日で、床ずれにも苦しめられ、起きて歩けるようになるまで、約二年かかりました。
昭和三九年の春、被爆が原因で子宮がんの手術を受けて、該当する神経を切られたため、それ以後は尿意をもよおさず時刻を決めて、便所に行くかたちで、また、食前での食欲が起らないための淋しい食生活という毎日を送っているような日常です。
以上
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