国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
真っ赤なものが落ちた 
岩﨑 幸江(いわさき さちえ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市中広町[現:広島市西区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●建物の下敷きに
八月六日の朝、八時三〇分からの仕事に合わせて、私は中広町の職場に向かいました。工場の隣に二階建ての建物があり、一階は食堂で二階は更衣室となっていました。私がその二階の更衣室で着替えをすませ、一階に降り工場へ行こうとした、その瞬間です。通路の先いっぱいに真っ赤なものが見え、私は意識を失ってしまいました。
 
はっと気が付くと、あちこちから「助けて~!助けて~」という声が聞こえました。私は崩れた二階建ての梁の下敷きになっていて、身動きが取れません。でも周りの人が助けを呼ぶ声を聞き、自分もそうすれば助かるのではと思い、「助けて!」と叫びながらもがいていると、柱と柱の間からなんとか左手が出ました。必死に手の先を伸ばしていると、瓦礫の外にいた守衛さんが私に気付いて、「待っとれよ、一人ではどうにもならん」と言って人を呼び、柱を持ち上げ助け出してくれました。すぐに工場の中庭に掘ってあった防空壕の上に逃げるよう言われ、そこへ行くと、友人の木村さんに出会えました。そこでも火が来るから川べりに逃げろと言われ、私たちは手を繋いで川の方へ逃げ出しました。
 
●友人と二人で家に向かう
福島川に架かる細い木の橋はところどころ燃えていましたが、私たちはそれを渡って山手町の河原にたどり着きました。二人でぼう然と河原に座っていると、飛行機が旋回しているのが見え、近くにいた兵隊さんに早く体に草をかけろとせかされました。白い服を着ていた私たちは大慌てで草をちぎり、飛行機から見つからないように体にかけ、草むらにしゃがんで身を隠しました。白い色は目立つので、飛行機の目標にされるかもしれなかったからです。
 
飛行機をやり過ごしてからよく見ると、私は額を切っていて、後頭部や右手、足にもけがをしていました。額から流れる血で右目がつぶれ、ほとんど見えません。工場にいた木村さんは足に傷がありました。それまでは、二人ともけがをしていることをほとんど意識していませんでした。
 
それから二人でとぼとぼと、救護所になっている学校を探して歩きました。ようやく見つけた学校は大変な行列で、暑い中を並んで待つことはできそうもなく、川上に向かうことにしました。次に見つけた救護所も、同じようにたくさんの人が並んでいます。治療してもらうことを諦めて、私たちは山本(現在の安佐南区)から山越えをして、私の家のある伴へ帰ることにしました。
 
炎天下に休める日陰もなく、私は裸足で上着もモンペも破れてぶら下がり、お尻がやっと隠れるくらいの状態でした。ただ家に帰りたい一心で、会話もほとんどしなかったように思います。二人で手を組んで山本に向かって歩いていると、私たちを見かけた人が「手をしっかり持っとってやれよ」と木村さんに声を掛けるのが聞こえました。木村さんが手を離したら、重傷の私が倒れてしまうと思われたようです。
 
やっと山の頂上に着いたのですが、のどはからからで、体中があつくてたまりませんでした。その時、雨が降り出したのです。ほてる体を雨にぬらしながら、思わず口を開けて雨を飲み込みました。後に黒い雨のことを知り、あれは放射能を含んだ黒い雨だったのではとも思うのですが、黒い色だったかどうかは覚えていません。
頂上で一休みしていると、見下ろした街のあちこちから煙が上がっているのが見えました。
 
●家にたどり着く
午後三時ごろ、家にたどり着きました。私は玄関の前で「お母さん!」と言ったきり倒れ、気を失いました。
 
目が覚めた時は、何が何だかさっぱり分かりませんでした。私は一週間意識がなく、頭の右側をけがしていたので左を下にして横になり、隣には背中をやけどした父が、うつぶせで蚊帳の中で寝ていました。
 
原爆が投下されたとき、伴の実家には母と祖母と妹がいました。父は夜勤明けの帰宅途中、江波の塩田を見に行って被爆し、背中一面にやけどを負って八月六日の夕方に戻ってきたそうです。靴とゲートルのすき間にもやけどをしていました。家は高台にあったせいか、二階の窓や廊下のガラスが全部割れたそうですが、母たちは無事でした。父はひどいやけどの体のまま、割れたガラスを片付けてくれたと、母が話してくれました。
 
母は気丈な人で、産婆(助産師)の勉強をしていたこともあり、看護の知識もありました。意識のない私を大八車にのせ、近所の人と病院に連れていってくれたそうです。意識が戻ってからも毎日病院へ連れていって、看病してくれました。
 
友人の木村さんは三日ほど我が家にいた後、疎開先の大野(現在の廿日市市)に行くと言って帰ったと母から聞きました。私の意識がまだ戻らない時だったのですが、木村さんのお母さんがあいさつに来られたそうです。半年後、彼女の住んでいた千田町を訪ねましたが、家は焼けており消息は分かりませんでした。
 
●お姉さん一家のこと
二従姉のお姉さんと子どもたちは、観音の家で被爆しました。お姉さんは炊事場で茶碗を洗っていて、上の子は外で、下の子は家の中の階段で遊んでいたそうです。お姉さんは割れたガラスを浴びて、顔中が傷だらけになりました。当時の観音は田舎で、周りは田んぼや畑でした。藁葺きの家がまだあり、お姉さんの家は瓦屋根でしたが裏の家が藁葺きで、そこへ火が着いたそうです。あっという間に火が回り、下の子どもが家の中で「熱い熱い」と泣いているのに助けに行くことができず、お姉さんは上の子とトラックに乗せられ、大野(現在の廿日市市)の方へ運ばれました。お姉さんの行方はしばらく分からず母が何度も捜しに行きましたが、二部隊に行っていた夫が戻ってきて収容先を探し当て、再会することができました。
 
助け出すことができなかった下の子は、焼け跡に遺骨だけになって見付かったそうです。
 
●終戦
八月一五日、ラジオで終戦の放送を聞きましたが、よく覚えていません。まだ意識がはっきりしていなかったので、後に母から聞いて「やれやれ」と思いました。母は婦人会の会長だったので、納得できなかったのでしょう。すごく残念がっていました。
 
その後、急性障害はありませんでしたが、私は常に貧血気味でした。頭のけがは縫ってもらったものの、化膿して九月になっても包帯をしていました。「戦争は終わったんだから、鉢巻はやめえや」とからかわれたこともありました。
 
私が原爆の後の雨を飲んでもこうして生きさせてもらっているのは、家で作った野菜を食べていたからではないかと思います。のどが渇くとトマトばかり食べていたので、戦後しばらくは当時のつらい記憶を思い出して、トマトは食べられませんでした。
 
●戦後の生活
昭和二〇年一〇月になって体も回復し、一一月ごろ農協から声を掛けていただいて、二三年三月に結婚するまで働きました。夫の岩﨑昭は兵隊から帰ってきてタイヤ修繕の仕事に就いており、結婚後は夫の実家がある草津に住みました。二人の娘にも恵まれ、昭和三九年ごろに庚午に現在の家を建てました。両親は戦後毎年大分県別府市の被爆者の療養所に行かせてくれて、そのおかげもあってか大きな病気はしませんでした。
 
両親も妹もがんで亡くなりました。妹は三〇歳という若さでした。母は二従姉のお姉さんを捜しに何度も市内に入り、被爆した私のそばでずっと過ごしていたので、放射能のせいではないかと思うことがあります。
 
私は四〇代から民謡を習い、町内会や老人会のお世話も続けてきました。おかげさまで、今はどこへ行っても最高齢ですが、元気です。
 
●人生を振り返って、平和への思い
原爆のことをピカドンと呼びますが、私は「ドン」という音は聞いていません。ただ、真っ赤なものが落ちたのを見たことはとても鮮明に覚えており、この体験を伝えておきたいと思い話をすることに決めました。原爆が投下されたとき、通路の先に私より一足早く外に出た人がいました。その人は腰から下が焼けて、砂を握(にぎ)って亡くなっていたそうです。もし外へ出ていれば、私も焼け死んでいたでしょう。
 
もっと早く戦争を終わらせることはできなかったのでしょうか。アメリカ軍が沖縄に上陸して地上戦があったのですから、その後すぐに指導者はそれができたのではないか、そうすれば広島がこんな目にあうことはなかったのにと思います。
 
世の中、紛争だらけ。軍隊を持たない日本は、いざとなったらどうなるのかと不安になります。核兵器を持っている国がいくつもあるし、どうしたらいいのでしょうか。軍隊を持つことがいいかどうかは私には分かりませんが、戦争は絶対してほしくないと思います。
 
元気で一人暮らしができるのも、平和だからこそです。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針