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果たせなかった母との約束 
上田 桂子(うえだ けいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女学院高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は、76年前の原爆投下で母を亡くしました。母の行方は今もわかりません。
 
母と私は被爆前に、大切な約束をしていました。ところが被爆直後の混乱の中で気が動転していて約束を果たすことができませんでした。その約束を少しでも早く思い出していれば、母ともう一度会うことができたかもしれないと、今でもとても悔やんでいます。毎年8月6日が近づくと、後悔で胸が苦しくなります。この思いは、一生消えることはありません。
 
母は私の憧れで、優しく、生活力があり、私をかわいがって大切に育ててくれました。
 
●被爆前の生活
私の名前(旧姓)は、伊勢村桂子です。
 
被爆当時は、広島女学院高等女学校4年生の16歳で、広島市下柳町で母と2人で暮らしていました。
 
私は生まれた時からこの町で育ちました。
 
母の時子は、当時42歳で、伊勢村美容室を営んでいました。父の繫一は、大阪で仕事をしていました。兄の章は当時20歳で、山梨大学の学生でしたが、被爆当時は研修の実習で福井に行っていました。
 
隣は母の実家で、母の姉と妹が住んでおり、いつも行き来して4人で暮らしていました。度々ごちそうになるなど世話になり、私はおばたちにも育ててもらいました。母の姉の福島ヨネは当時48歳で、母の美容室の隣で日本髪専門の福島理容院を営み、母の妹の福島良子は税務署に勤めていました。
 
戦争がひどくなる前は、祖母も隣に住んでいましたが、祖母は足の調子が悪く、義理の叔母(母の弟の妻・福島芳子)の家族と一緒に古市に長屋を借りて疎開をしていました。母の弟は戦争に行っていて、終戦後に戦地から戻りました。
 
暮らしは、戦時中の割には裕福でした。習い事をさせてもらったり、家族で写真を撮ったり、好物のおはぎ団子もよくいただきました。
 
働き者の母は、美容室を経営し、家族を養っていました。母の美容室には使用人もおり、仕事中に蓄音機を流すなどハイカラで、花柳界の女性など多くのお客さんがいました。しかし、戦争が進むにつれて、憲兵に美容室を調べられたり、パーマはぜいたくだと「パーマネントに火がついて、みるみるうちにハゲ頭~」などと替え歌を歌われて、店についての批判や嫌がらせをされたこともありました。
 
大阪へ行く前の父は、三篠の方で受刑者を雇って土建業を行っていて、福屋の地下工事の下請けなどもしていましたが、何度か倒産することがあり、全て母がその後の支払いなどをしました。
 
母の夢は、郊外の古江に大きな家を持つことでした。古江はイチジクの産地で、イチジクがなる時期にはよく買いに行っていました。
 
私は、3歳くらいから16歳まで日本舞踊を習い、あと2年続けると花柳流の名取になれる予定でした。毎年お正月には、母は美容室が忙しい中でも私の日本舞踊の踊り初めの着付けや準備をしてくれました。
 
戦時中の学校では、勉強以外に勤労動員に駆り出されました。
 
広島陸軍被服支廠(軍服の縫製)、兵器補給廠(兵器の組み立ての手伝い)、糧秣支廠(軍の食料の缶詰め作業手伝い)など、いろいろな所に行きました。戦争の局面が厳しくなった昭和20年5月からは、月曜日から土曜日まで勤労動員に派遣されました。
 
その頃の動員先は東洋工業(株)でした。東洋工業(株)では、軍人が使用する鉄砲の組み立て作業をしました。女性も指導を受けて、旋盤を扱いました。
 
呉ではB29による空襲が何度もある中で、広島は警戒警報や空襲警報は度々ありましたが、実際に爆弾が落ちたことはありませんでした。私は安心していましたが、母は、今度は広島に爆弾が落ちて大変なことになるのではと案じて、警報がある度にとても怖がっていました。夜間は特に怖がって、警報で眠れぬ日々が続いていました。
 
下柳町では防空壕を掘っていない家が多く、私たちの家にも防空壕はありませんでした。そのため饒津公園の近くに家を借り、空襲警報がある度に母と私と隣に住むおば達と一緒に避難していましたが、私は翌日に勤労動員があるため、「死んでもいいから家にいる」と言って一人で下柳町の自宅に残り、寝ていたこともありました。
 
母と私は「空襲で離れ離れになった時は、饒津神社でおち合おう」と約束を交わしていました。
 
●8月5日の出来事
8月5日は日曜日で、久し振りに母も私も休みでした。
 
母は電車と汽車で祖母が疎開している古市へ行き、祖母たちと束の間の休日を過ごしました。
 
私は、友人5~6人と宮島に遊びに行きました。遊びに行くと言っても戦時中でしたので歩くぐらいでした。宮島からの帰り、己斐で帰路が分かれて、残った友人と八丁堀に戻り、たまたま時間があったので映画を見て帰ることにしました。その当時映画などは基本的に禁止されていましたが、友人と「奴隷船」を見ました。内容は怖い印象でした。その後自宅に帰ると、母もすぐに帰ってきました。見てきた映画の話をすると、偶然にも母も見ていた映画だとわかり、話が盛りあがりました。
 
その夜は、母と二人で床を並べて休みました。
 
いつもなら私が先に寝付き、母はしばらく起きているのですが、その夜はなぜか私は一睡もできませんでした。母はめずらしくイビキをかくほどすやすやとよく眠る一夜でした。
 
今になってみると、親子の別れの前夜の虫の知らせのようでした。
 
母にとっては死の前の眠りのようでした。
 
●8月6日の悲劇
あくる朝の8月6日、いつものように母と朝食をとりました。
 
私は、勤労動員に行くため、友人が迎えに来たので、家を出ました。
 
配給でもらった貴重なお肉を、母の分まで入れて作ってくれた、母の心尽くしのお弁当を持って家を出ました。
 
路地に出る前に何気なく振り向くと、母が庭ぼうきを片手に私をじっと見つめていました。
 
これが最後の別れになろうとは、思いもしませんでした。
 
電停の所まで友人と行きましたが、電車に乗ろうとする直前に、警戒警報のサイレンが鳴ったので、家に帰りました。当時の学生の、警報が出た時に取る行動は、すぐに家に帰ることでした。
 
自宅に戻った時、仕事の準備で店に出ていたのか、母の姿はありませんでした。
 
私は空襲に備え、しばらく様子をうかがっていましたが、いつまで待っても空襲がなかったので、再度家を出ました。
 
駅に向かう途中、友人の住田さんと出会い、二人で勤労動員先の東洋工業(株)に行くために広島駅に向かっているところで、一瞬「ピッカ」と光りました。
 
すさまじい光と共にドーンという爆風の音で、背中をパーンと押されたように吹き飛ばされて意識がなくなりました。
 
後からわかったことですが、被爆場所は爆心地から約1.5キロの広島駅付近でした。
 
辺りは一瞬一面真っ黒になり、目の前が見えなくなり、何の音も聞こえなくなり、やがて明るくなりました。建物の下敷きになりましたが、火は出ておらず、けがも気になりませんでした。
 
すぐに友人の住田さんを捜し、無事を確認すると、二人で一生懸命動員先の東洋工業(株)を目指して逃げました。
 
母のことを思い出しましたが、いつも空襲警報で逃げることに慣れていた私たちは、きっと母も逃げていると思い、引き返しませんでした。
 
広島市内は、黒い煙が出ていました。だいぶ進んだところで広島市内を見ると白い入道雲のようなものが「もくもく」と上がり、あちらこちらから火の手が上がっていました。あれは何だろうか、と人々は口々に言い、兵器倉庫が爆発したとか、爆弾が落ちたなどさまざまな憶測が飛び交っていました。何が起こっているのか事実はまだわかりませんでした。
 
広島の近くから離れたので、住田さんと多くの人が集まっていたところで休んでいたら、広島市内の方からけがをした人や、やけどをした人などが次々と逃れてきました。これはただならぬ大変なことになっているのではないかと、この時初めて恐ろしさに身が震える思いが込み上げました。
 
「母がどうか無事に逃れてくれていますように」と神に祈りました。
 
やっとのことで府中町の東洋工業(株)に着くと、担任の先生から「すぐに広島に帰りなさい」と言われました。
 
私たちは、広島文理科大学(現在の広島大学)の学生1名を班長に、生徒5人組で広島を目指しましたが、市内は火の海で、入ることはできませんでした。
 
そこで、府中町にある東洋工業(株)へ戻り、みんなが集まっている寮のような所で一晩を過ごすことにしました。
 
ここで、母が作ってくれたお肉入りの心尽くしのお弁当を食べました。
 
広島を望むといまだに火の手はおさまらず、真っ赤に燃えていました。
 
周りには、けがをした人が多くいて、苦しむ声で眠れぬ夜を過ごしました。
 
●母を捜して
8月7日の朝、広島に入ることができないので、友人の住田さんは戸坂の親戚の家に向かうため、私は祖母や叔母(母の弟の妻・福島芳子)のいる疎開先の古市を目指して一緒に二葉山を越えました。祗園で住田さんと別れ、一日がかりで古市まで歩きました。道中一番に祈ることは、母が元気な姿で私より先に疎開先に行ってくれていることでした。 
 
夕方にようやくたどり着き、「お母さんは?」と祖母に叫びました。叔母は「よく戻った」と私がたどり着いたことをとても喜んでくれましたが、祖母から母がまだ戻(もど)っていないと聞いた私は、母のことを考えて胸が押しつぶされるようでした。
 
翌日に叔母と二人で、母を捜しに横川経由で街に入ろうとしました。
 
市内はまだ火がくすぶっている状態で、周りは真っ黒に焦げた遺体や、熱くて防火水槽に水を求めて亡くなった遺体など多くの遺体がありました。
 
その地獄絵図を目の当たりにして、私は思わず叔母に「もう帰りたい」と言いました。「あなたのお母さんを捜しに来たのに」ととても怒られました。
 
次の日からも母を捜し続けました。肥料を運ぶ牛車の牛が立ったまま真っ黒に焦げ、御者も牛の首にしがみついて黒焦げになっていたのが、とても怖くて足がすくみました。相生橋を渡る度に、川にはたくさんの遺体が浮いていました。潮の満ち引きでぷかぷか移動しながら浮かんでいて、膨張した遺体だらけでした。
 
福屋や中国新聞ビルを通りさらに進んでいくと、下柳町の実家らしき場所に着きました。家は焼けていました。叔母が家のあった場所に入ると金庫が残っていたので母の美容室とわかりました。私も後に続いて焼跡に入ると、足がずぼっと入りました。足元に気付かずに、頭蓋骨を踏んでいたのです。母かと思いましたが、お客さんのようでした。パーマの機械がそばにありました。
 
連日、母や隣に住んでいた下柳町のおば達(母の姉と妹)を必死で捜しました。
 
自宅周辺をさまよい歩き回りながら捜しましたが、見つけることはできませんでした。
 
その時の私は、必死に闇雲に捜すばかりで、「離れ離れになった時は饒津神社でおち合おう」と母と約束を交わしたことを、すっかり忘れていたのです。
 
気付けば一週間が経っていました。
 
不思議なことに、遺体やひどい光景に慣れている自分がいました。
 
やがて税務署に勤める叔母(母の妹・福島良子)が無傷で古市の疎開先に戻ってきてくれ、同じ頃、兄も広島に戻ることができました。それでも母と伯母(母の姉・福島ヨネ)は見つけることができませんでした。
 
一週間が過ぎた頃、母の美容室のお客であった方の知り合いが、母は東練兵場にいると伝えに来てくれました。お客だった方は、たまたま母が運ばれた東練兵場の野営収容所で母の横で寝ていたそうです。その方が大八車で家族のもとに運ばれる時、母も古市の疎開先に連れて行って欲しいと頼みましたが、二人を載せての移動は無理でした。その代わり必ず古市の疎開先に伝えると言って伝言を頼んでくれたのです。
 
その知らせを聞いてすぐに、叔母(母の弟の妻・福島芳子)と私と兄は大八車を借り、男手を頼んで東練兵場に行きました。
 
東練兵場の野営収容所に張り出された大きな名簿に、母の名前がありました。しかし、着ている服を見て、名札を見て、一人一人声をかけて確認しながら捜しましたが、母を見つけることはできませんでした。
 
収容所のすぐそばで、亡くなられた方が山のように積まれ、投げられながら火にかけられ火葬されていました。息を引き取ってすぐに人として扱われない様子に胸が痛みました。
 
私はなぜ「離れ離れになった時は饒津神社でおち合おう」と母と交わした約束を思い出せなかったのだろうと悔やみました。饒津神社は東練兵場の近くにありました。すぐに神社へ行っていれば、母を見つけることができたかもしれません。
 
母が、こんなところで一人でさびしい思いをしながら私たちが来ることを願っていたかと思うと、悔やんで、悔やんで、やりきれない思いになりました。
 
約束をもっと早く思い出していたら、違う結果になったかもしれないと悔やまれるのです。
 
●終戦を迎えて
その後も古市の叔母たちと母と伯母を捜すことが、日課となっていました。
 
捜し続けても見つからない日々が続き、8月15日になりました。
 
古市駅で正午に玉音放送で天皇陛下のお言葉を聞きました。日本が戦争に負けたことを理解しました。
その頃、食べ物は不足していました。古市の疎開先で食べたお肉の入っていない肉じゃがや、母たちの捜索中に街で配っていた銀シャリのおにぎりがおいしかったのを覚えています。
 
8月の末頃、無傷で戻っていた下柳町の叔母(母の妹・福島良子)が、髪の毛が大量に抜けて、体中に黒い斑点が出始め、食べた物を全て吐いてしまうようになりました。吐く食べ物がなくなっても、内臓のようなものを吐いて息ができなくなるので、古市の叔母(母の弟の妻・福島芳子)が手で喉に詰まった物を取り除いていました。
 
叔母(母の妹・福島良子)は、9月1日に亡くなりました。「原爆症」であったことが後になってわかりました。
 
同じ頃、私も調子が悪くなりました。
 
養生するため、父方の親戚が住んでいる神石郡永渡村相渡(現在の神石高原町)の家に、大阪から戻っていた父と一緒に行くことになりました。
 
数日間高熱が続き、父は心配して家の周りに生えているドクダミを煎じ、毎日私に飲ませました。とても苦くて嫌でしたが、その頃は薬などなかなか手に入りませんでした。父の薬が効いたのか、一週間程で熱は下がりました。
 
父と兄は何度も広島まで母や伯母(母の姉・福島ヨネ)を捜しに行きましたが、
手掛かりはなく、見つけることはできませんでした。
 
10月に遺骨がないまま、父と兄と3人で、お寺で法要を行いました。
 
やがて父は大阪へ、兄も学校が残っていて、二人とも広島を離れました。
 
私はその後も神石で暮らしました。
 
神石での暮らしは、今までの街での暮らしと百八十度違うものでした。
 
生きていくために慣れない農作業や水くみなどをしました。
 
はじめは下着を買うお金もなく、こんにゃく芋をつくり、お金を稼ぐために大木を切り出してげたの材料にするために運ぶなど、大変苦労が多い生活でした。
 
昭和20年の暮れ娘三人を全員亡くした祖母は、心労で亡くなってしまいました。私は相次いで身内を亡くし広島で頼る人を失って、孤児になったような気持ちでした。
 
翌年、神石に住むこの親戚の息子さんが戦争から帰還しました。
 
昭和21年4月に私はこの方と結婚しました。17歳の私が生きていくために、このご縁は大切なものでした。
 
上田桂子として、今までこの地で暮らしています。
 
結婚後10年間は子どもを授かっても流産が続きました。お医者様には原爆が原因でしょうと言われましたが、おかげさまで10年を過ぎてから子ども4人に恵まれました。
 
夫は体が弱くリウマチを患いました。私は、胃がんや甲状腺を患いました。
 
●生かされて思うこと
広島に原爆が落とされないで、母が生きていれば、もっと違った人生を歩んでいたことでしょう。このようないたずらをなさった神様を憎んで過ごした日もありました。
 
人間というものは生まれた時にすでに人生のフィルムが決められているのだと思い至ってからは、自分が生かされ、今日まで来られたのだと感謝しています。
 
子どもたち4人と多くの孫に恵まれている今は、本当に幸せです。
 
原爆について問われることは、私たちのように、肉親を生身を剥ぐごとく奪われた者にとっては、死ぬまで思い出したくないことを思い出すことでもあります。
 
自分の子どもにも詳しい話をすることはありませんでした。
 
けれども戦争を知らない世代に伝える大切さを感じる機会があり、少しずつ気持ちに変化が生まれました。
 
あの恐ろしい原爆は、私たちの世代の者だけが知るものとして終わり、次の世代に同じ経験や思いをしてほしくないと願って、10年前頃から地域の小学校などで被爆体験の証言を行っています。
 
神石高原町の被爆者代表として、平和記念式典で献花したこともありました。
 
今年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の遺影を登録しました。
 
私は毎年原爆追悼の日を迎える頃には、母への思いが込み上げ、気分が沈んでしまいます。約束を忘れずにいたらと今でも悔やまれるのです。最後を見届けることができなかった後悔が胸に押し寄せるのです。
 
思いを抱えながら、あの忌まわしい日から76年間、懸命に生きてきました。
 
おかげさまで私は92歳なりました。
 
健康100歳体操を行うなど、健康に気を付けて、日々を大切に暮らしています。
 
夫が亡くなった後も、自動車運転免許を更新し、身の周りのことはなるべく自分で行うなど、神石高原町のこの地で一人暮らしを続けています。
 
ふるさとである広島を恋しく思いますが、仏様をお守りするためにもこの地で暮らしています。広島で暮らす子どもたちもいますので、これも何かのご縁だと思っています。
 
山口に住む広島女学院時代の友人と、コロナが収まったらどこかで会おうと話をしています。二人で再会できる日をとても楽しみにしています。
 
穏やかで平和な世界はあたり前ではありません。
 
日々無事に暮らせることはとても幸せなことです。
 
平和のありがたさを痛切に感じている者として、穏やかで平和な世界が続くことを、心から願っています。 

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