広島に原爆が落された翌朝のことです。私の住んでいた広島から十粁程離れた郊外の病院には昨日の朝からトラックで続々と運ばれて来た二百人もの傷ついた被災者が病院の中だけには入り切れず土の上に敷かれたむしろの上に横たわり、うめき、泣き、此の世のものとは思われない惨状でした。
老医師である義父は休む間もなく五人の看護婦と負傷者の手当を続けましたが医薬品も底をつき、既になす術はなくなっていました。私達家族の者も夢中でそれを手伝い疲れ果てまどろむ間もなく翌朝を迎えたのです。病院の待合室には足の踏み場もない程だった負傷者が大分少なくなっていました。家族に引取られ或は自力で家へ向ったものでしょう。
朝の光が待合室の中に射しこんで一隅を照らした時、そこに一人の少年が壁に向って横たわっていました。被爆した時、帽子の下だった頭髪の上半分はきれいな坊主刈なのに下半分から首、上半身は無惨に焼けただれており、下半身のズボンやゲートルは殆んど残っていました。
その朝は何体かの遺体が戸板に乗せられて運び出された後でしたからその少年ももしやと近づいてみると、もうよくは見えないであろう眼を私の方に向け、渾身の力をふりしぼって、「看護婦さん」と私を呼び「僕は一番初めにここに来たのですがまだ番がこないのでしょうか」と聞くのです。
思わず枕もとに膝まづき「ごめんね、おそくなって。今すぐ先生に来て貰ってあげるから、しっかりするのよ」と云うと「すみませんが水を一杯下さい」と云いました。私は“水を呑ませたら死ぬから、呑ませてはいけない”と、云われていた事を思い出しました。でも、少年の顔にはもう生きる力は残っていないように思えました。此の子の最後の頼みをきいてあげないわけにはいかない。私は台所に走りコップ一杯の水を彼に渡したのです。
矢張り少年はその水を一口飲んで息が絶えました。私はふるえる手でコップを握りしめ、もう我慢出来ませんでした。涙がもんぺの上に滴り落ちました。「お母さん」と、どんなに呼びたかったろうに。まだ中学一年生、幼さの残る可愛い一三才です。
学徒動員で建物疎開に狩り出され、先生とも友達ともはぐれてやっと逃げのびた知らない病院でたった一人で死ななければならなかった。「お母さん」とも呼べず、「助けて」とも云えずに。
もう絶対にこんな事は嫌だと思いました。私にもちょうどこの年頃の弟が二人あり、山形と日光に疎開していました。あの弟たちもこんなむごい姿にならないとも限らないと思うと矢も楯もたまりませんでした。
原爆の悲惨な体験の中で一番忘れられないことです。此の事を人に話す時、私は涙と共に、反戦の誓いを心に刻んでいます。
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