岩本先生の父君、三郎二氏のことを知る人はほとんどありません。先生の人格形成に大きな影響を与えたであろう父君についてチヱ子夫人に伺ったものをまとめました。
どんなときにも真摯な態度でことに当たられた先生に、父君の影を見る思いがします。
一明の父、岩本三郎二は明治十五年一月七日、元岩国藩士の分家の長男として生まれました。
明治三十年頃、長崎への鋳銅の技術の修得に行ったあと広島市に戻り、現在の平和公園の西に店を出していたそうです。その頃は小学校か高等科を出た男の子を何人か預かって技術を教えていたようです。
大正四年頃、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が建てられ、その屋上に銅か真鍮かで作った半円形の飾り物を張り付ける注文を受け、下請業者が進める作業を小学校二、三年生の主人が父親に連れられて見に行ったことがあったと聞きました。
また古くから広島市の人たちの氏神さまとして親しまれている比治山神社の見上げるばかりの大鳥居に真鍮を張りつける仕事を三郎二が引き受け、その作業も主人は父と一緒に見に行ったことがあったようです。
三郎二は発明家で、水道が普及する以前、便所の手洗い器の下のボタンを押すと水が出る装置を開発して全国に出したという話も主人から聞きました。その一個が、原爆投下のあと、家の裏庭に埋めてあった鉄箱の中から出てきたことがあり、いまも残っています。
支那事変(日中戦争)の頃には軍部の注文が入るようになり、呉海軍工廠からは薬莢の見本を出され、一枚の真鍮板を型でくり抜いて作るのに成功して、原爆投下までその仕事をやっていました。工場の入口に「監督官の許可なしに入るべからず」と書いた札が貼ってあったことは私も記憶しています。この薬莢も一個だけ裏庭の箱から出てきたものが残っており、いまも仏壇のそばに置いています。高さ八センチメートル、直径五センチメートル程の大きさで、監督官から「よくこんな立派なものができたものだ」と感心されたという話を聞いたことがあります。
そんなこともあってか、広島では「岩本三郎二に習った」といえば、その技術は信用されていたのだといいます。父、三郎二の職人としての誇りが、教師ひとすじの道を歩いた夫にも形を変えて伝えられていたのかも知れません。
岩本チヱ子
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