家の前の庭に作っていた防空壕の中へ行こうとしたら、雨が降っていた。走って行こうと思ったが、家の前の畠に植えているトマトの葉や赤い実に点々と黒い雨つゆが付いていた。
子供心にあれだけの爆風がふき、舞い上がった塵が雨といっしょになって落ちてきたのだと思った。私は思わず母を呼んだ。母は頭が濡れても洗う事が出来ないので「此れでも頭に掛けて」と手ぬぐいをくれた。防空壕の中に入り大切にのけていた、飴玉があった。二個だけを大切に持ち急いで家の中に入った。家の中へ入り妹達に一つづつ渡した。頭にかぶっていたタオルに付いた黒いものは洗っても落ちなかった。私が着ていた服に付いた黒い点々も、川に洗物をする時に持っていって洗ったけれど落ちなかった。川上には焼け死んだ人たちが浮いているよ。西広島・・・辺りから、前か後ろかと分からぬ程に怪我、火傷・・・などをした方々を目にした私は恐ろしさと、気の毒、ただただ泣くだけで、どうしてあげる事も出来なかった。
三・五キロメートルの処で被爆した私、中学二年生に成っても益々机の前に座り勉強するときは無かった。甲状腺ガン、大腸ガン、手術・・・甲状腺ガン左は手術を受けた。右はメスを容れることは出来ないといわれた。もう、永い月日、何十年もお茶を飲んでおります。今、こうしてパソコンで文字を打ち、文章をつづる事が出来る事はありがたい事だと感謝をしています。
亡くなられた方がたのご冥福をお祈りいたします。
亡母は「胃がん」終戦のあくる年に、この世を去りました。 |