専門学校新入生として、授業が開始されたのが八月一日で六日目に木造三階建て校舎の廊下で被爆した。ガラス窓越しにオレンヂ色の光りを見て何んだろうといぶかりながら歩を止めた瞬間、顔面を思い切り強打された様な感じを受け、ガラガラとくずれ落ちる建物の下敷きとなって倒れた。悲鳴が聞え暗闇の中でもがく友人達の体がふれ合う。その中落ち着いて!と誰かの力強い声がかかり励まされる。かすかに外の光がさし込んで来て早く外に出た人が手をさしのべて引っ張り出して呉れる。出た処は塀の上にかぶさる様に倒壊した屋根の上で周辺の住宅は校舎と同じくすべてなぎ倒された様に壊われている。しんと静まって音のない世界の様だった。かすかに白い煙が立ちのぼっている処もあった。
私は顔面にガラスによる裂傷があり、こめかみ辺りからとめどなく血が流れるのをハンカチで押えながら二人の友人に助けられながらその友人の一人の自宅がある長束をめざして逃げる。饒津神社の近くまで行った処で火にさえぎられ仕方なく川原に下りて鎮火するのを待つ。体を横たえると出血多量のためか睡魔におそわれる。眠ったら駄目!と友に励まされ立って居たり、歩き廻ったりする。二部隊の兵士達が全身やけどの苦しみに耐えかねてのたうち廻り、私共を見ると「お姉さん水を下さい」と叫ぶ。他の人達もほとんどの人が着衣はボロボロになっていて、じゃが芋の薄皮がめくれた様な裸身となって座ることさえ出来ない人も居た。
岸辺の家が燃えつきて私達は目的の長束をめざして再び歩きはじめる。その道々焼けた家の下敷きとなった黒こげの死体も見た。まさに地獄絵である。
私はこうして無事助けられたが麻酔なしの縫合をしたりその後長年に渡る無気力や倦怠感はつらいものだった。結婚して二人の子供もさずかったが発育、成長等に関してともすると私が被爆者であることを結び付けて考えてしまうことが多い。孫にまでもしかしたらという不安をぬぐい切れない。
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