二〇年八月七日未明に広島市内に入る(午前三時三〇頃)(現)三次市に広島が空襲に依り全滅との報にトラック四、五台に四〇名位が乗り(八月六日夜半)から広島に帰える。
市内横川について、全市が全滅にびっくり南は宇品の方面までまる見え、横川駅の附近には死だ人が転がったまゝ?相生橋を渡る時(現原爆ドーム)産業奨励館を右に見て紙屋町交差点に至るその間被爆をした人が多く転ってゐた。紙屋町から大手町の電車路を歩き鷹の橋停留所まで来て、休む。防火用水の中に子供が三人四人顔を水につけて死んでいるのを、自分の子供ではないかと、さがす親が多く見られた。けが人が助けて呉れと脚にさばり付くのを後で助けに来るからと云った。
陸軍被服廠に急いだ。被服廠に付いて、一〇名を一組した物が大手町、千田町にけが人の収容に出た。手造の担架を持って、手助をする人数よりけが人、死人の方が、はるかに多いので弱ってしまった。なにがなにやら、わからないまゝ二日が過ぎた。
三日目に自分の家に様子を見に帰って良いと云ふ許可が出たので家に帰って見た(広島市皆実町三丁目)現在皆実町六丁目に帰って見ると家はめちゃめちゃになっていたが火災には、なっていなかった。生のこった人達で火をけし止めたとのことであった。
けが人の収容で汗でよごれた。体を水でふいたりしたけど風呂に入っていないので汗くさい、比治山橋と御幸橋の間の川に水あびにいった。未だ収容しきれないのか水の中に死んだ人が浮いてた。死人の人を、よけて水あびをした。四日目に入ると死人がどんどん出るので、そのまゝにして居くと、うじがわくので広場で一〇人、一五人と焼くことにした。名前のわかる人は髪の毛と爪を取って封筒に入て焼のこった建物のかべに、はって、知人や親、兄弟の人達がさがしに来るのをまった。書きたいことはたくさんあるのですが文が、まとめにくいので止めます。
被爆体験を話しをして呉れと云われるのなら、いくらでも話すことは出来ます。この紙に書きつくすことが出来ないのが残念でなりません。
後日ゆっくりした時にくわしく被爆体験を書きのこしたいと思って居ります。
被爆時には(広島陸軍被服支廠に勤務していた)三次市に出張中。 |