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私の8月6日 
岡本 教義(おかもと のりよし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所 広島市仁保町金輪島[現:広島市南区宇品町] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は、1930年9月、6男3女の、大家族の4男として広島で生まれ今日現在で88歳10ヶ月になります。1937年7月、現在の中国との間にシナ事変となる戦争が起こり、1945年8月に太平洋戦争が終わるまでの間がいわゆる義務教育期間でしたので、まともな教育を受けていません故、失礼な言葉がでるかも知れませんし、取り止めのない話になるかと思いますがお許し下さることを願います。
 
1945年8月6日、広島被ばく当日、私は陸軍あかつき部隊船舶運輸部補給部に軍属として勤務していました。1945年4月入隊で14歳11ヶ月でした。勤務地は広島市宇品町金輪島と言う、現在、フェリーで宇品港の入る手前で右側に見える小さな島です。宇品港より小さな舟で10~12分程です。当時、宇品港全体が軍事基地となっており民間人は入れない所でした。
 
又、部隊の主な任務は明治時代の日清戦争により太平洋戦争にいたる間、陸軍兵士や戦争物資を輸送船で中国や東南アジア等の戦地へ送り出すのが任務でした。

自分等は戦地より帰って来た船の修理が主な任務でした。僕らは上級生について手伝いをするだけです。しかし当時は出て行く船、帰って来る船も数少なく僕らが居た4ヶ月間に3、4度しかなかったように思います。それ以外の日時は上級生及び教官兵士による仕事及び軍事の教育を受けていました。

したがって、広島市内のひさんなこうけいとか、ドーム近くの川の中に多くの負傷者が溺れて居たことなど知りません。
 
8月6日、前日5日は日曜休日でしたが、命令により休日出勤となり8月6日を休日として居ましたが、8月5日、夜、呉市に空襲が有りましたので、上級生より出来るだけ出勤するよう言われ仕方なく同僚3人、他の部所の2人が出勤する事となり宿舎(宿舎は宇品7丁目に有り、電車で宇品港まで電停が3つ有ります)を出ましたが、他部所の2人は職場に行かず、広島市内へ電車で行きました。(AM7時50分)

我々3人は現場に着き、上官より良く出勤したとほめてもらいました。市内に行った2人は帰って来ませんでした。
 
その日朝礼をすませ、作業服に着替えようとしていた時でした。

空がピカッと光ったのです。

初めは、海岸にあったクレーンがよく故障していたので、「また故障かな?」と思って、2~3分歩いて向かっているとドカーン!!という物凄い音がしたのです。しばらくして強風と海水がとんで来ました。そのうち目の前に白い煙がシューっとまっすぐに上がり、だんだんと先の方が黒くなっていき大きく広がり傘ができていきました。

これがいわゆるキノコ雲だったのです。それは、正直綺麗だったと振り返ります。

しかし、「一体何だったんじゃろうか」「広島のガスタンクが爆発したのだろうか?それにしても煙が大きいぞ」と騒ぎになっていました。

しばらくして上官からの全員集合の号令がかかりました。

戦闘準備に取り掛かることになり、軍服に着替えて鉄兜をかぶり、集合しました。兵士と上級生は偵察部隊としてAM9時頃、船で広島の様子を見に行くことになりました。その間防空壕で待機していました。
 
2時間ほど経過したころ、偵察に行っていた上級生が帰って来ました。
「広島がもう歩けない状態になっている。宇品の先までは行けるけれど、そのあとは行けない」広島市内は火の海で、壊滅状態となっているとの報告でした。

そこで上官からの命令を待つことになり、場合によっては下級生も市内に行かないといけないかもしれないとのことだったため、心の準備をしていました。次の命令で倉庫内及び、我々の作業場を空にして、むしろや毛布を並べることになりました。始めは何のためにするのか分からなかったです。
 
6日14時を過ぎたころ、宇品方面より、船が我々のいる所へ接近し、桟橋に着岸し船底より黒い物体を持ち上げ陸側の兵士達に渡していました。

初めて、「負傷者が運ばれてきた光景を見て、一体何を持ってきたんだろうか。本当に人間なのだろうか」と思うほど、負傷者の状態は悲惨なものだったのです。約2,300人は居ました。
 
上半身火傷を負った人、背中を焼かれた人、手足の皮がはがれた人など、ありとあらゆる負傷者が運ばれてきました。

船より20~30mの所の収容所に歩いて行ける人はまだ良いのですが、自力で歩けない人もたくさんいました。

歩けない人には2人がかりで抱えて連れていくのですが、自分の差し出した手に、負傷者の人の手の皮膚がずる剥げ、べっとりと張り付くのです。

また、背中を負傷している人の場合は、介助する際に背中の皮膚が剥がれてくるので、無理やり剥ぎとるしかありませんでした。顔と言わず身体全体に傷がある人も居ました。
 
これはサンマを金網の上で焼いた際に、金網にサンマの皮が張り付き、持ち上げるときにつられて身まで外れてくるような状態と、同じ感じました。
 
皮膚は全部焼けただれているわけではなかったので、垂れ下がっている皮膚は、手で剥ぎ取ったり引きちぎるのです。そのときに剥げた皮膚の中に赤い肉が出ていたのです。

これは、14歳の少年にはとても怖く恐ろしい作業でした。
 
僕が今でもきになっている負傷者で口元より両耳まで切り裂かれ両目をつむったままで、前上半身が黒く焼けた女子学生がいました。2、3日過ぎた頃には、その人が見えなくなりました。その人の生死は分からず、不明者のまま、どのような結末になったか気がかりです。
 
わたしは負傷者看護が任務となりましたが、薬もなく、14歳の身では、唯こわくどうして良いのか分かりません。

先輩に言われて傷口を真水で洗う事、口をきける者から住所、名前を聞く事、それを名札に書いてつけるよう言われ実行しましたが、口もきけない、字も書けない者は不明者として名札をつけました。時間がたつにつれ、死亡者が出るようになり屋外にはする搬出作業にもつきました。

死者のあとに負傷者を入れる事をしました。夜中にくらい灯の先で見回り中、死者を見付けた時程、身体がすくみ、ぼうぜんと見て居ました。僕の親兄弟も何処かで同じようたって居るのではないかと考えると無償に泣けてきました。

ぞくに言う、地獄なる場所が有るとすれば、今がまさに地獄に居るのだと感じました。
 
負傷者の傷口を洗うために、真水を使って洗い流すのですが、だんだん真水では間に合わなくなり、海水を汲んできて塩水で洗い流すことになりました。
「痛い」と言う人、口が利ける人はまだ生きる見込みがありました。

しかし、「痛い」とさえ言えず声も出なくなっているような重症の負傷者もたくさんいました。その人たちの中でただ「水をくれ」と言う人に、水を含ませることもありました。

しかし、上官が「やけどの人に水を飲ますな。死ぬのがわからないのか。水を飲ませたら一発で死んでしまう。」と注意がありました。
 
しかし、いまだに私の心に残る思い出は、あれ程ほしがる水をたとえだめと言われていても口に入れてあげなかったか?あれでよかったのか?いまだに自問しています。余命いくらもない人の願いを叶えず、たとえ一滴でも口にいれてあげなかったことを後悔しています。

死亡者確認作業は、軍医、看護師といった知識のある人がいるわけでもなく、我々が上官に知らせ、上官が見て決める作業でした。

現場は、悪臭と死臭が漂い、介護者の中には、初めは気分が悪くなる人や嘔吐をする人もいましたが、人間不思議なものでそこにずっといると慣れてしまい全く臭いを感じなくなるのでした。

また傷口にうじが湧いている人の中には痛がらない人もたくさんいました。ひどい負傷によって感覚がなくなっているのです。

そういった人たちは、亡くなっていくのです。痛がる人は、うじを除けようとするので、生きていく力が残っていました。
 
うじが湧いている傷口を見るのも、最初の頃は気持ちが悪いものでしたが、これもまた何回も水で洗い流す作業をしていると慣れによって「虫が虫でなくなっていく」のです。
「あってはいけないことですが、人間には順応性があるということなのでしょう」と当時の様子を回想します。
 
8月7日朝より、昨日来より死亡された遺体を船に積み、似ノ島と言う所に搬送しました。金輪島より約1時間くらいでしょうか。そこで遺体の処理をしたそうです。火葬にしたのか、埋葬にしたのか分かりません。

命ながらへて、金輪島にたどり着いた者が、一滴の水を飲む事が出来ず、名前すら明らかに出来ないで死んでいった人達を想うと自分が今の年齢まで生きていることがわるい事のように思えてなりません。

私が松山に住むようになって60年あまり、
その間、愛媛県では昨年の南予の水害しか知りません。
 
地震災害の少ない愛媛ですが、一度伊方の原発が事故を起こしたら平和で安全な愛媛はなくなります。

福島原発事故で、原発の安全神話はだれも信用致しません。

原発の運転は人間がしているのです。

ミスや失敗の多い人間のすることをだれが信頼できますか。

残念な事ですが、我々の年代で原発という危険な物を作り現代の皆様方に置きみやげとして来ました。

願わくは我が国是と言ふべく非核3原則なる文面が永遠に守られる事を念じて終りと致します。 

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