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元アメリカ兵との出会い 
小片 ミヤノ(おがた みやの) 
性別 女性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島市千田町二丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
私は広島県比婆郡庄原町(現在の庄原市)にある実家を出て、広島市宇品町(現在の南区)に1人で住んでいました。そこから、同じ宇品町にある陸軍船舶司令部(元運輸部)に通い、印刷関係の仕事をしていました。しばらくして、画家の小片精一と結婚、それを機に仕事も辞め、住まいも千田町二丁目(現在の中区)に移しました。戦争が激化する中、港町で軍の施設も多くある宇品町にいるのは危ないと言われ引っ越しましたが、その時はこれから起きることなど想像も出来ませんでした。

●被爆の状況と避難
その日、夫は熱を出して寝込んでいました。私が熱を冷ますための氷を買いに出掛けようとして玄関を出た、その時です。ものすごい爆音と共に、灰色の煙に目の前が覆われました。何が起きたのか分からず、怖くて足がすくみ動けませんでした。すると突然、ガラガラと大きな音をたてながら我が家が崩れていきました。その時、2階で熱を出して寝込んでいたはずの夫が、どうやって出て来られたのか分かりませんが、駆け寄って来ました。夫に「ミヤノ、ミヤノ」と声を掛けられましたが、私は声も出ませんでした。「どこかへ逃げよう」と夫に引き連れられ道に出て見ると、辺りの様子は一変していました。朝礼中に爆撃に遭ったのか、手の皮膚が焼けて垂れ下がり髪の毛がチリチリになった学童たちが泣き叫びながら、目の前を通り過ぎて行きます。早く逃げないと危ないと思い、必死で走って逃げました。周りから「キャー、キャー」と悲鳴が聞こえましたが、皆が自分のことで精一杯でした。中には子どもを抱いた女性の姿もあり、とても気の毒でなりませんでした。

ちょうど御幸橋の辺りまで逃げて来た時、飛行機の音が聞こえてきました。また爆撃を受けると思い、御幸橋のたもとに置いてあった小舟にすぐに飛び乗り、じっとしゃがんでいました。どのくらいたったのか分かりませんが、音がしなくなったのでもう飛行機は来ないだろうと思い、恐る恐る舟から降りました。周りを見ると、町は一面焼け野原と化し、橋の上ではスコップを使って死体をトラックに積み込んでいます。そんな様子を見ていると、「私はこんなにも元気なのに」とやり切れない思いで涙が出ました。しかし、ここにいてもどうしようもないので、私の実家がある比婆郡庄原町(現在の庄原市)に向かうことにしました。

一面焼け野原でどの道を通ったのか分かりませんが、川には多くの死体が浮かんでいました。道端にあった電車は真っ黒に焼け焦げ、中をのぞいてみると、足を上にあげたまま亡くなっている人の姿が見えました。今でもその光景は、忘れることが出来ません。町はまだ熱気が充満していました。私は草履を履いていましたが、夫は寝ていたままの格好で飛び出しているので、履物も履いておらず、亡くなった方の靴をわびながら頂き、一路庄原町を目指し歩きました。途中、大柄な男性に「水をくれー、水をくれー」と呼び止められ、捕まってしまうと思い怖かったです。かわいそうだとは思いましたが、どうすることも出来ませんでした。

庄原町まではかなり遠いので汽車に乗ろうと思い、駅に行ってみましたが、負傷者やその家族でしょうか、多くの人でごった返していました。その日の内に帰るのをあきらめ、これからどうしようかと思案していると、見ず知らずの人が声を掛けてくださいました。その方の家に泊めてもらえることになり、その上、御飯までごちそうしていただき、本当に助かりました。その晩床に就いていると、外で誰かが「みきちゃーん、しょうちゃーん」と名前を呼ぶ声が聞こえてきました。家族を捜す声が一晩中続き、寝ることは出来ませんでした。

明くる日、家人に別れを告げ、また駅に向かいました。昨日同様に駅は混雑していましたが、やっとの思いで汽車に乗り、ようやく庄原町にたどり着きました。実家では、広島市内で起きた惨劇が既に伝わっており、なかなか帰ってこない私たちを心配していました。心のどこかで、もう死んでいるのかもしれないと思っていたそうです。

●治療と戦後の生活
その後、私たちは庄原町の実家で療養をしました。私には目立った外傷はありませんでしたが、夫は家屋が倒壊した時、首にけがを負ってしまいました。しかし、しばらくすると私も自力では立てないほど衰弱してしまいました。病院に行くと、医師が温泉療養を勧めるので、夫と一緒に島根県にある温泉で療養することにしました。当時は島根県まで行く交通の便も発達していなかったため、そこまでおんぶをしてもらって行きました。そこは温泉と言っても男女分かれて入るおふろではなく、服を着たまま皆が一緒になって黄土色のお湯につかって治療する所でした。私たち以外にも被爆してけがをされた方が大勢、治療に来ていました。

温泉療養のかいもあり、体力はだいぶ回復しました。千田町の家は焼け落ち、家に置いていた夫の絵画や画材もすべて失ってしまったので、庄原町に帰り、しばらくは叔母の家に住んでいました。しかし、ただで泊まらせてもらっているので、代わりにふすまの張り替えなどを手伝っていました。その後、実家に移り住み、夫が以前菓子屋に勤めていた経験を生かしてあめを作り、それを売って生計を立てました。私は一日中、釜であめを炊き、それを夫が庄原町や隣町まで自転車に乗って行商しました。有り難いことに親も協力してくれ、カマドにくべる薪をたくさん用意してくれました。その後生活も軌道に乗ってきたので、実家を出て、夫と2人で新たな生活を始めました。

●家族への思いと病気
待望の子どもを授かった時は、本当にうれしかったです。難産で大変でしたが、元気な子が生まれてきた時はほっとしました。幼い頃娘は、私たちが被爆者なので、誰々のお母さんが亡くなったと聞くと、私たちも死んでしまうかもしれないと心配で泣いていたそうです。被爆したことが子どもにまで影響を及ぼすとは思っていませんでしたが、子どもは子どもで悩んでいたのだと思います。娘は結婚についても、被爆2世ということを隠しておかないといけないと思っていたそうですが、良縁に恵まれ、今では孫もいます。私は娘や孫たちだけでなく、まだ幼いひ孫たちにも時々被爆体験を話しますが、とても熱心に話を聞いてくれます。生前、夫も平和に関する絵を描き、その絵をチャリティーに出展したり、被爆体験記を書いたりして平和活動に熱心でした。

昭和35年、被爆者健康手帳を取得しました。現在92歳となり、貧血症状や白内障などで病院に通っていますが、家族に囲まれて幸せな生活を送っています。

●今、思うこと
娘がホームステイを受け入れるボランティア活動をしている関係で、50年目の年に当たる平成7年、あるテレビ局から元アメリカ軍人のホームステイ依頼がきました。彼の名前は、ディック・シャーウッドと言い、原爆投下直後の広島を見たと言います。彼との出会いは、本当に素晴らしいものとなりました。

8月6日、彼は原爆について何も知らされないまま、広島の様子を偵察するよう命じられました。彼が上空から見た原爆投下直後の広島は、低空飛行だったため、人々が逃げ惑う姿まではっきり見え、まさに生き地獄で、大きな衝撃を受けたそうです。私が御幸橋で飛行機を見たのと彼が偵察していた時間がちょうど重なるので、もしかしたら彼が飛行機に乗っていた人ではないかと思いました。彼は偵察後基地へ帰還し、乗員仲間と共に上官に抗議したそうです。除隊後も50年間ずっとあの惨劇が頭から離れることはなく、夜寝ていたら悪夢にうなされ半狂乱になったこともあったそうです。これまで広島を訪ねることは出来なかったが、アメリカで平和活動を通じ原爆の恐ろしさを訴え続けていたそうです。

私たちはお互いの体験や思いなど、様々な話をしました。私は彼と会って、上空と地上に分かれ、立場や国籍は違っていましたが、彼が原爆に恐怖を感じ、その体験に苦しみ続け、そして平和を強く願っていることを知り、彼も同じ原爆の被害者だと思いました。彼も「本当に来て良かった。人生が変わった」と言っていました。今でも手紙のやり取りなどで、交流は続いています。

あれから60年余りたちましたが、あの原爆の悲惨さやその時の状況は、今でも忘れる事は出来ません。宇品から千田町二丁目に引っ越したことにより、結果的により爆心地近くで原爆に遭うことになりましたが、玄関先にいたからこそ命が助かったのだと思います。もう一歩でも先に進んでいたら、もっと大けがをしていたはずです。私は多くの人の支えのもと、生かされているのだと思います。そして生かされた私が、被爆体験を後世に伝えていかなければならないと思っています。

 

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