夜明の空襲警報も解除になりじゃがいもの朝食をすませ妻は鏡台に向って居り私はトイレに行くべく玄関の間に行った時「ピカ、ドン」とやられ、一時気を失ったが、妻を引きよせ倒れた家の下から妻の手をとって外に出た。妻は顔中ガラスの破片がさゝり血で顔は真赤になっていた。私は幸に軽傷ですみ隣り人の子供を助けに行ったりしている時黒い雨が降って来て妻にかけたシーツ(爆風でとんで来たもの)に黒い点々がしみついていた。出血で眼の見えない妻の手を引いて火災の中をくゞって江波の方へ逃げ、妻の傷と妊しんしていた身が心配で陸軍病院に他の負傷者と一緒に行った。
その途中の負傷者の姿は地獄でした。殆どの人が裸でひどい火傷をして居り両手のヒフがやけてずるむけになって指先よりたれ下っていたり、死んだ赤子を抱きしめて子守唄を唄っている。手脚のちぎれた人を戸板で運んでいる等々。
夜江波の小山で野宿していた時ひどい下痢をして腸が出てしまうかと思った。しかしそれで放射能の毒が出たのではないかと後で云われた。その后二日位妻の体調の快復を待って、自宅の焼跡に野宿して宮島口の知人宅に一時的に避難したがいろいろと不都合のことがあり己斐の知人経由で毛木の姉の疎開先に行った。妻は一一月に長男を出産した。幸に健全であった。一二月に水の使い方で失敗して追い出され年末に生后二ヶ月の赤坊を抱いて海江田の農家まで逃げて物置のような処で正月を迎へた。
子供は元気で育って助かったが夫婦共四~五年は体調がわるくくるしんだ。一〇年位から后に比較的好調であったが七〇才すぎてから私は脳梗塞左手脚マヒ、妻はリユマチに悩んでいる。 |