今から七五年前私は、山口県周防大島町から就職する為に兄を頼って広島に出て参りました。当時私は十五才就職先は、現在の吉島羽衣町にありました。毎日自動車会社で整備の仕事に就き同世代の友人達と楽しく働いておりました。当時の広島は緑豊かで、山、川、海とても環境の整った美しい街並みで広島は何と素晴らしい所だと十五才の私は、日々田舎との違いを感じておりました。
ある日、勤務中に足を怪我してしまい職場の社長から「産業奨励館に行きなさい」と言われ初めて産業奨励館に来た時は、「何とモダンな建物がこの日本にあるものだ」と感動したものです。当時の産業奨励館は、現在で言う労災手続きの部署がございましたので行かされたのだと思います。その建物が四年後に原爆ドームと呼ばれる建物になるとは、誰も思っていなかったと思います。月日は流れ私も十九才になり友人達とも打ち解けるようになり、友人宅へ八月五日の夜から宇品へ遊びに行っており翌朝空襲警報で目を覚まし皆で防空壕に避難しておりましたが、しばらくして空襲警報解除になり防空壕を出て空を見上げると北の方向より飛行機が一機飛んで来たのです。空襲警報が解除になったのだから大丈夫だと思っておりましたが又、北の方向から二機目が飛んで来て間もなくして「ピカッ」と光って、ものすごい爆音で、私はびっくりした事を今でも覚えています。時間と共に様々な情報が飛び交うようになり一緒に前夜より過ごしていた友人の母親を探しに中心地へと向かいましたが、炎と煙り、逃げて来る人達の姿で大変な事が起こったと気付きました。逃げて来る人々の中には、焼けただれ、服を着ていた跡が残っているだけの人、全く顔がわからない人、それは、この世の姿ではなくなっていました。私がどうしても忘れる事ができない親子がいます。私に「水をちょうだい」「水をちょうだい」と私に言って来ました。水を飲ましてあげようとしたら近くにいた兵隊が、「水を飲ましちゃいけん、死ぬけえだめじゃ」と注意を受け水を飲ましてあげる事ができませんでした。しかし水を飲ましていないのに目の前の親子は、息を引きとってしまいました。時間と共に沢山の人々が水を求めて川に飛び込み、そのまま亡くなって行く、その姿はまるで生き地獄のようで、広島でいったい何が起こったのか理解できませんでした。数日が過ぎ、元気だった人が急に亡くなったり、髪の毛が抜けたり本当に沢山の人達が目の前で亡くなっていきました。
当時は原子力爆弾の威力というものを知らないので身体にいったい何が起っているのか、何故時間が経っていくにつれて人々が亡くなっていくのか理解する事ができませんでした。十九才だった私はあまりのショックで原爆投下の状況を話す事ができませんでした。しかし現在八八才まで生かされた事に感謝し、亡くなった人達の分も生き証人として広島の原爆体験を伝えて行きたいと思いここに手記を、書かせていただきました。
私の願い、それは、絶対に戦争をしてはいけないと言う事です。失うものはあっても得るものは一つもないと思います。
私も被爆者です。残りの人生、亡くなった多くの人達の分までも原爆の悲惨さを伝えて行ければと思っております。
山口県周防大島町
岩元 京一
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