八月六日朝空襲警報解除になったので、二階の干棚に布団を干しに上って、下りた直後にピカット光るものを見た。部屋に入いって主人、姑も怪我はなかった。部屋を廻ってみたら隣合わせの壁が内側に倒れかかっていた。主人は体調悪く休んでいたので家の中の物を取り出す事が出来た。取り敢えず持てる物を持って姑と尾長町の瑞川寺の山の墓地に避難した。空襲があったら皆ここえ集まる事に決めていました。
夜になっても義妹一人だけ帰ってこなかった市中は火の海となった。二日程して歩いて横川駅の方へ向った途中あちこちに死体があったり、所々焼け跡はくすぶっていた。この様な惨状の中歩かせて頂いている自分は生きている有難さ涙が止まらない。横川駅の市電の中も通勤していた人々の死体が折り重なっていた。何とも云えない悲しみ。己斐まで歩いて漸く電車が走っているので廿日市まで親戚へたどりついた。毎日焼け跡へ防空壕に入れてある物を堀り出したりしては廿日市へ行く状態が続いた。しばらくして私は下痢が続いた。主人は黄疸になった。おかげ様で快復させて頂いた。又義妹の消息をあちら、こちらと尋ねましたが、わかりませんでした。
被爆死した犠牲者の霊様安らかにお眠り下さい。
多くの霊様達のおかげで現在私達は日々生活させて頂いている事勿体なく思います。
あやまちは繰返しませぬ世界しんの平和を願います。 |