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原爆と真っ赤な太陽。真っ黒い雨。 
石井 啓司(いしい けいじ) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1986年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 崇徳中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下後…追憶…真の国際平和を願いながら…
原子爆弾(ピカドン)投下の犠牲者のご冥福を祈って…

一九八六年(昭和六一年)八月六日 石井 啓司
(五七歳 毘沙門台小学校にて) 記

原子爆弾投下当時一六歳、崇徳中学校三年在学中。学徒動員中、「観音三菱製機工場」において被爆。

…あの日の恐ろしかった瞬間…地獄の絵巻その実相

早四一年。この悲劇を二度と繰り返してはならない!

「ひろしま」の祈りは全人類の祈りであり、世界の国々の人々の願いでなくてはならない。

今日の原爆記念日…私は平和を祈る日にしたい…を新たな感慨を胸にして、その犠牲者に対して心からご冥福を祈り、平和であることの幸福を想う。


三九年前の今朝の気温と天候は、ほとんど同じようです。

崇徳中学校三年…校長 竹野 恵真。担任 武田 自強。同級生三一五名。

太平洋戦争は、硫黄島玉砕以来、一段と空襲も激しくなり、国民総決起、一丸となってこれにあたれ、という軍の命令によって、全男全女老いも若きも総動員になった。

私たちは、学徒動員命令が発せられ三菱造船、三菱造機に配属されたのが昭和一九年と記憶している。

戦争が厳しくなり、南方戦線の軍への物資輸送、軍人の輸送が激しくなってきた。そのため、新型の輸送船を製作するのである。私の担当分野は船舶の内燃機関(ボイラー、蒸気タービン)。極秘機密二二号艦と呼んでいた。

どんなに暑くても決して暑いと言ってはいけない。戦場にいる兵士の事を思えば、何でもない事だ!一億一心、八紘一宇、東亜共栄圏の呼び声のもとに必死である。

私共と一緒に動員されたのは、市商、二中、山中女子中学校、崇徳中学校、市女の一部の生徒、女子挺身隊(平均二二~二五、六歳)、それに、朝鮮の若い方々の徴用兵(強制連行、二三、四~二六、七歳の青年)だと記憶している。

八月六日、朝六時頃起床。当時我が家は農家で、長男であり、学徒動員で観音町まで通勤しなければならない身であるから早く起きなければならなかったのであろう。毎朝のように麦飯に漬け物(たくあん)を二~三杯食べて腹ごしらえをして、「今日も暑うなるで」と親父と話しながら地下足袋をはいて、ゲートルを巻いて身支度をして家を出た。弟は同じ中学校の一年生で、白島町の建物疎開作業に行くのである。

可部線の緑井駅から毎日満員電車に乗って、横川駅から市内電車で終点の江波で下車、江波射的場、県立商業学校前を通って、江波大橋を渡って工場に行くのである。すごく暑い。歩いて三五分の道のりである。

工場は午前七時五〇分に開門されるので、その時間には門の前に並んでいなければならないのである。開門時間一五分の間に入場しないと、いかなる事情があろうと強く罰せられるのであるから、遅れないように努力しなければならなかった。この厳しい時間帯も軍の司令であったというのである。開門され入場する場面は、丁度今の駅の改札口のようである。いちいち「○○中学校〇年○○であります」と身分を明確にして門を抜けるのである。軍の命令とあっていかに厳しい生活であったか、この一面を見ても想像がつくと思う。一旦工場に入ったら、六時までは工場の現場からは離れることができない厳しさであった。私は幸い同郷の方(同じ部落の増原高志さん、警務所監視)が守衛、門番であったため、多少の事は許可してくださったので助かった。

午前八時工場の電源スイッチが入れられると、大きな工作機械がうなりを上げて回転し始めた。轟音とともに一日の総力あげての仕事が始まった。私は厚さ五〇ミリメートルの鉄板の上で、次々と運ばれてくる材料の鉄板の切断、溶接の担当で、組長(現場監督で仕事の指導者)の指示に従って仕事を始めた。工場の建物は鉄筋、周囲は窓ガラス張りで仕切りはなく、端から端までは一〇〇メートル以上の大工場の棟である。

工場内の時計は八時を少々回っていた。今から起きようとする歴史的大爆発を予期する人間は誰一人としていなかったであろう。私もその一人である。戦争に勝つことを皆信じていたに違いない。だからどんなに苦しくても与えられた仕事に必死であったのだろう。酸素ボンベ一五〇気圧のゲージを開き、ガスバーナーに点火。その瞬間、ピカーッと鋭い閃光。私はとっさの驚き、すぐさま五〇ミリメートルの鉄板の下に入って、四本の指で眼を覆い、親指で耳をふさぎ、口を開けて伏せた。(これは当時の自分の身体を守るための訓練で教えられたこと)その間一~二分、ものすごい轟音、地面を揺さぶる「ドーン」。何も考える余裕などない。身体が固くなって身動きも出来ない。「ドーン」と不気味な音と何かが頭と全身に覆いかぶさって落下してくるようなすごい音響。工場の機械の止まる音。電源を人が切った音ではない。ガラガラ、ゴゴー。その後は何も耳に入ってくるものさえ感じない空間であった。

私の不注意で工場が爆発を起こしたのではないかと、胸がひどく脈打つのを感じた。一体何が起きたのだろうか。しばらく鉄板の下でじっとしていた。どうなったのだろうかと少々考える余裕が出て、顔面から手をとり、眼を開いても何も見えない。私が入っている五〇ミリメートル鉄板は健在であるが外に出ることができない。ふと、びっくりしたことには、すぐ隣に当時私共の現場指揮者、組長の「くさかべさん」が一緒である。「おーい、石井君」と息を詰まらせて言われるのでびっくりした。「まあ、とにかくあたりが静まったようだからここから出てみよう」と言われるので、出ようとしたがよく見ると周りは天井に張ってあったスレート瓦で押さえられ、外に出ることが出来ない。二人でその瓦を手で押しのけ、ようやく外の光が目に入った。一緒にいた級友はどこに避難したのだろうか。瓦をはねのけてようやく鉄板の下からはい出した。天井は鉄骨だけ。「くさかべさん」が「あれを見いや。真っ黒い雲がもうもうと上がっている。ただごとではないで」とその声。すごい雲である。まるで入道雲のお化けのようである。

工場内は、機械の騒音とは全く違い、倒れている者、死んでいるのか生きているのか、茫然と立っている者、身体中血まみれになって泣いている女子挺身隊員、ただ目的もなしに走っている同級生、顔面にガラスが無数に立ち、手の当てられない始末、ガラスを取ると血が噴き出るのでさわれない。地獄の形相の姿か。ついさっきまで、戦争のため、お国のためと思っていたあの心はどこへ行ったのだろう。ふと、我に返った時、自分の任務である本部との連絡である。(工場に入った時間、本日の出欠の有無を本部に連絡する)この状態でどのように連絡を取ればよいのだろうか。とにかく、製管工場本部(担任の武田自強先生のいる所)へ走った。約二〇〇メートルある。必死で走った。途中会った者、同級生は皆まともな姿ではない。怪我一つしていなかった自分が不思議でならなかった。本部に着いたら先生も少し顔面に傷を受けていた。本部付きの寄光君は顔面手を当てられないほどのガラスの破片が突き刺さっている。どうしようもない。細田君が製管工場錬成工員工場で下敷きになっていると言うので、大急ぎで助け出せとの連絡である。早速元気な仲間と一緒に救助についた。救出して当日彼がどうなったかは知るよしもなかった。戦後生死について心配していたが、しばらくして元気な彼と再会できた。

話が少々わきにそれたようだが、工場内はこのざわめきでどうしようもない。とにかく私はこの恐ろしい場面から逃げようと思い、友人一二~三名と工場から立ち去ることにした。規則もきまりもあったものではない。ただ皆自分の身の安全と恐ろしさだけであった。

工場を出た時刻は覚えていないが、大体午前一一時頃であったのではないかと思う。門を出ると町中は本当に火の海である。私たちはどっちに逃げていったらよいのか見当もつかない。でも、無傷の私はなんとか家には帰れるだろう。市内の火の海は全くの地獄そのものである。家の屋根から屋根へと飛び移る人、どうせ焼け死なれるだろうに。助けて手の尽くしようもない。観音町から福島町方面へ逃げる途中のありさまである。目玉の飛び出た人、頭から足の先まで真っ黒に焼け焦げた人、焼け焦げた馬、角の折れ垂れ下がった牛、母らしい女の人に引かれ狂ったような顔、目つき、焼けただれた赤ちゃんを焼けた布切れで包み、抱きかかえて歩く母親。(もちろん母親も全身火傷をしている。)男も女も見分けがつかない。着ているもの、まとっているものは手当たり次第なもの。炭俵をまとった人。私は自分だけが無傷であることが不思議であり、変な気持ちになっていたようである。

「元気なお兄さん、連れて逃げてえー、ねえー頼むから」、何度となく声を掛けられ、その中を後ろ髪を引かれる思いで我が家へと急がざるを得なかった。我が家へ帰る道は、小さい頃通った道があるので有り難いと思った。「己斐峠越し、それが駄目なら石内峠越し」と計画が浮かんだ。「よし、福島川(今の太田川放水路)を渡ろう」ところが、傷を負った友人をほって自分だけが渡るわけにはいかない。ちょうど川の中ほどに舟があるので、私はここで友人に待つように指示して、舟を手前の岸に引き寄せた。服をつけたままである。「さあ、乗れ。向こう岸へ行くで」私はずぶぬれである。舟板でこぐ者、水に入ってくれた友人は二人。一生懸命舟を押したがなかなか進まない。というのも、いつ乗ったのか女子挺身隊の数人が乗り込み、舟が沈みそうな状態だった。まあとにかく対岸の「己斐側」に着くことができた。

舟をつけるや、一緒だった仲間は皆姿が見えなくなってしまい、私はずぶぬれで一人になってしまった。自分だけ助かれば人の事までかばっている時ではないのだ。我に返り、また我が家へ急ぎ始めた。誰から誰へとなく「己斐の駅の方に時限爆弾が投下されているので、通行できない」という訳である。困ったことになったと思ったが、何とかなるだろうと思い切って「己斐」に出ることにした。

これからが大変であった。己斐側の川岸にも焼けただれた人、血まみれになって倒れている者、母を探し求めている子ども、「水をくれー、水を飲ませてくれー」と呼んでいる人。どこの家も全壊か半壊で人は一人もいない。一体どこへ逃げていったのか。市の中央に立ち上がったあの不気味な黒い雲は、生き物のような動きで、己斐方面に移動してくる。町で燃える火は、どんどん大きく燃え上がってくる。

己斐の町に入ったが、火災はまぬがれたようだが、がれきと家の倒壊で歩けない。身体中焼けただれた人波の中を、私は必死でくぐり抜け、国鉄己斐駅まで出たが、道は歩けない。線路を横切り、ようやく人の動きの少ない通りに出た家が倒れた所で、焼けただれた人が座っている。男子か女子かわからないありさまである。怪我をした人、火傷をした人たちが行列のような状態で逃げてくる。

頭から黒焦げになった女の先生だろうか、焼けただれた子ども達を連れて、己斐小学校へと避難してくる。「お兄さん、あんたあーひとつも怪我も火傷もしとらん。わしらー連れて逃げてくれんさい」と助けを求めてきた。しかし、どうすることもできなかった。

己斐小学校では陸軍の軍曹らしい階級の兵隊に止められ、軍刀を抜いて「怪我人の救助活動の援護をしろ」と命令され、困ったことになったと思ったが、しばらく頑張った。我が家の事や次に何が起きるかわからないと動揺し、その場をようやく離れ、一人になって己斐峠に上り始めた。己斐峠に上りかけたころ、時刻は正午一二時くらいか、大分腹が減った。空を見ると、今にも頭にのしかかってくるような真っ黒い雲と思った瞬間、真っ黒い大粒の雨が頭の上に、ザーッという音を立て、ものすごい勢いで降り出した。頭からずぶぬれである。峠の谷間を流れる水は、真っ黒く氾濫する勢いで流れる。真っ黒い雨である。それが私にとってはひんやりして暑さを忘れさせたようにも思えた。ところが、それは恐ろしい放射能を多量に含んだ雨であったことは、後から分かったことである。

かれこれ三〇分以上時間がたっただろうか、身体中ずぶ濡れで、一時雨を逃れるために山道の側の小屋に入ったが、小屋には火傷をした人、血もぐれになった人でいっぱいで入ることもできない。峠では歩けなくなった人、身体中真っ黒になった上に黒い雨を受けて人間の姿とは思えないありさまである。

丁度八月と言えば桃のなる季節で、峠の段々畑の出荷した後の紙袋を押さえてみると、ときたま残りがあるので空腹をしのいで、家路を急いだ。峠の道は避難して来る人の数がどんどん増える一方である。雨に濡れた服からだんだん身体の中まで冷え込んでくるが、太陽の熱は容赦なく照りつける。濡れている服、照りつける太陽熱で身体中焼けただれている人は、どんなに熱かったことだろう。峠の道は避難して来る人、力尽きて歩けなくなった人、茫然と歩く人はどこまで逃げていこうとしているのか、行きつこうとする目的地がちゃんとわかっているのだろうか。いやほとんどの人は、前を歩く人についていけばどこかに落ち着けるのではないかというそういう思いであったのではないかと思う。そういう行動をとるような心理状態であったと思う。

峠を越し、沼田、大塚、伴へ。伴にさしかかったのが、午後一時半か二時頃だっただろうか。黒い雨もいつの間にか止み、黒い雲は北西の空へ大きく広がっている。安川沿いに家へと急いだ。安に出た頃には、安川沿いに上ってくる何百人という避難者に出会った。私が帰る方向から避難者が上ってくるのは不思議だったが、よく考えてみると横川、三篠、大芝方面からの避難者がもうこの辺りまで上ってきたのである。歩き疲れてようやく我が家に着いたのが、午後三時前であったように記憶している。早速麦飯のむすびを三つ一気に食べた。

親父の敏雄は、私と弟が広島市に出ていたので心配して、探しに出た後であった。今度は親父のことが心配になったが、どうすることもできないので、帰ってくるのを待つ以外になかった。弟の直は当時中学一年、白島方面の建物疎開動員に出ていたが、遅れて家を出たので、一電車遅れ三篠神社のところで被爆したが、幸い防空壕に飛び込み、怪我もせず私より先に家に帰っていた。親父が帰ってきたのは午後六時頃であった。親父は私が元気であることを、私の友人から聞いて安心したようである。ところが、親父の弟(田中悟)が三滝の陸軍病院にいることを思い出し、救助に行った。かなりひどい重傷だと帰って話していたのを覚えている。おじさんの悟さんは、硫黄島で日本軍玉砕寸前に、足の貫通重傷で日本の陸軍病院へ送還され、玉砕をまぬがれたが、二度目の大災難にあった。まあ、皆命がありよかったのである。

家から見る広島の町は炎でうまり、なお燃え続けている。広島駅の北にある二葉山は炎につつまれていた。私の家は爆風をまともに受けて、天井が三〇センチメートル以上吹き上がっていた。屋根の棟瓦は吹き飛び、建具の障子や桟は骨が折れ、爆風の力のひどさに驚いた。

さて、「真っ赤な太陽」であるが時刻は午後四時半から五時頃だったと記憶しているが、家の周りの大人や子どもが集まって、広島の焼ける姿を見ながら、一体何が爆発したのか、どんな爆弾が落とされたのだろうと、皆ガヤガヤと言っているところ、誰だったか急に大声で西の空を指さして、「真っ赤な火の弾が頭の上に落ちてくる。逃げろ」というので、皆西の空を見たとたん、溝の中へ隠れた。しばらくして皆我に返ると、それは夕陽で沈む太陽が町の焼ける煙と火や雲の関係で、太陽がより大きく真っ赤に見えたのである。

こうして、私を取りまく人々、親兄弟の八月六日の原爆投下の恐ろしい地獄さながらの一日が終わった。
その夜は、焼け続けているあの炎の中で、生身のまま焼けている人や子どもを探し求め叫び続けている人、じっと焼けるありさまを茫然と見ている人、亡霊のようにさまよっている人がいることを想像して、一夜中眠れなかった。


この記録は、父啓司が一九八四(昭和五九)年、一九八六(昭和六一)年の二回(それぞれ日浦西、毘沙門台小学校校長在職中)にわたって残していたものを、改めてまとめたものである。

父啓司 令和元年六月一二日午前二時三〇分 九〇年の天寿を全うする。

二〇一九年(令和元年)七月


※次の体験記に避難経路と戦後、崇徳中学生時代に撮った写真が掲載されているので御参照下さい。
(一)ひろしまを語り継ぐ教師の会編
『白い花 戦争・被爆の体験を皆さんに伝えたい』一五五~一五八ページ
(二)ひろしまを語り継ぐ教師の会編
『語りびと 原爆・戦争の実相を今こそ語り伝えておきたい』一九一~一九四ページ

  

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