歳月は人を待たず、あれから六八年後、オイボレ犬の様に、記憶がままならず、今日此の頃、広島の爆撃の残酷さを思い出して居ります。
江田島の幸之浦にて、今日も暑い日になるなと朝食後、いつもの様に何事もすることなく、バラック兵舎にピカッと、強い光と、そのすぐ後にものすごい音と風にわれわれは防空ごうにとび込んだ。その後広島は大変な情況に対してわが部隊は宇品港に上陸し市内に迫って進んだ。家はほとんど破壊された。市内もくもくと歩きそのうち、火の海町を行ける所まで行き八〇人くらいの人員別れて現場に行き女学生が、何百人生死の解らないなかで真赤な体で兵隊さん水を下さい、或いは苦しいから殺して下さい。
そのことに対して何も出来なかった。水をやると上からの命令で水もやれなかった。それが一生がいの自責の念に苦哀してます。その途中で海に廻って命ある限りの人々の行列にあの人達は、どんな人生を送ったか気になって居ます。
私の無力が悲、一人も助ける事が出来なかった。あの人達はどんな人生を送ったか気になってます。
その日の夜どこかの学校の中に怪我人を運んだ。ガラスの無い学校に一晩中朝まで続いた。その後女学生達や無数の死亡見て言葉が無かった。これからは後先解りませんが、四、五才の子供が背中で寒いと云って泣くことも出来なかった。私の背中で死んだ子供、皮を残して死んでいった。可哀想だった。勤労奉仕の女学生達の橋の上で生きてた方々が今日になったらまことに悲しかった。若い母親の乳房にすがりみどり児が防火用水に入って死んだのを見てどんなにか熱かったのだろうと思った。クビに穴があいてた母親が、子供に何か教えて行った。子供はその後どうしたろうと思っている。それから毎日火葬の日が続いた。四、五年生の子供が私の所へ来て親の骨をほしいと焼キャクした灰を持たした。少年は、どうなったろうと思っている。ガレキの中を毎日毎日、死者を焼いた日が続いた。又、川の流れの引しおの時に小魚が背中の皮がはがれて泳いでいるのを見た。その日大段博士がマッチバクダンだろうと私の友人がそんなバクダンあるかと叱られた。その七日の夕方トクシュバクダンを落したとニュース有った。一週間過た頃市内はチョロ、チョロと火の海の後に又死の町になった。中国銀行の屋上へ一晩寝た時人生の無情を思った。
一言も文句も云へず殺された何十万人の死者を思う時福島の三月十一日の災害は津波で亡くなった人と同じ悲だが其の外は天と地の差がある。
物言へば唇寒し秋の風
追伸
広島死者を火葬を毎日毎日してる時に、疎開してる、四、五年生の男子供が、父、母、の骨をほしいと云って来た少年が有りました。その時骨が無くて灰を持せてやりました。その少年は、どんな生き方をしたか、今まで気になって居ました。
広島は焼野原になった時、七十年は、草、木も生えないだろうと新聞記事に有りましたが、外路地に右側に一本の緑の芽が出てたのを見た。誰かが見てる筈だと思う。
草木も生えないと思うのはウソだと思った。
石井
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