八月六日、中学二年生だった私はこの日は母の体調が悪く小学二年生と五歳の妹がぐずるので学徒動員先を休んだ。洗濯、台所の片付けなど色々と済ませ座敷に座ろうとした。何の気なしに柱時計を見た。八時一五分、其の時、東の方向から今まで見たことも無い光がガラス越しに部屋に入った。私は思わず「朝から照明弾を落として」と独り言を言った。と同時に言葉には出来ないガラス窓が爆風と同時に粉々に割れたガラスがたたみに突き刺さった。足の踏み場は無い。東側の部屋に居た私の体に割れたガラスが足の甲、背中、腕などに突き刺さった。母と妹達は壁で仕切られた別の部屋に居たのでガラスの被害は無かった。
天井は垂れ下がり、座敷に置いていた水屋は傾き、中の物はみな畳の上で壊れていた。余りの怖さに、二人の妹は泣き、母は私の姿を見て言葉は出なかった。あちこちに刺さったガラスを母に取ってもらった。あまりの恐ろしさに、私まで泣きそうになったけれど我慢をした。妹たちが中々泣き止まないので、母が防空壕の中に何か食べるものが有るから持ってきてといった。外へ出るのも怖かったけれど、外へ出て言葉を失った。
私は思わず母を呼んだ。男の人も女の人も裸に近い姿で、髪の毛はちぢれ、着ていた物は体に張り付いていた。両手をぶら下げ、何といって表現をしていいか言葉は見つかりません。お水、お水と云われても飲ましてあげる水もなく、ともに泣くしかありませんでした。男の人が座って頭を付けたまま亡くなっておられました。
若いお母さんが、赤ちゃんを抱っこされて、とぼとぼ歩いている人が家の前で足を止められた。母はその人に「おしめ」が有るからと呼び止めて、傾いた箪笥の中から、おしめを出してきた。私は思った。この人には食べ物も大事だけれど、オシメも必要なのだ。
八月六日、この日から三晩隣組の人たちで作った防空壕で寝ました。飲み水は、井戸水を頂きに農家のお家に行くのが私の仕事でした。汚れ物は川に洗いに行きました。
被爆した時の「住所 南観音町三菱社宅 総合グランドの横に社宅が沢山建っていました。」
八月六日、八一歳になった今日でも、確り覚えています。昭和一九年三月一〇日 三菱へ出ていた父の転勤で神戸から広島へ来ました。神戸にいても空襲、空襲で怖い思いをした事と思います。
|