八月六日八時一五分、私は日赤甲種看護婦第二学年の実習生として中央一階外科病棟に勤務していました。丁度前夜の当直申し送くりを済まし寄宿舎に帰るべく一歩廊下に出ようとドアーの取手に手をかけた時、強い黄色を帯びた閃光が走った。其の後ドーンという腹の底から突き上げる様な轟音に一時呆然と立ち竦んでいた私の耳に助けて下さい、看護婦さん、とあちこちからの助けを求める患者さんの声に我にかえって目にしたものは、つい先程迄、当時広島一とまで云はれていた美しい院内は形をとゞめない迄に廃墟と化し崩壊しているのです。窓ガラスは全部飛び散り天井はたれ下って病室迄ようよう辿りついて中を見た時、ベットは全部上下ひっくり返り其の間に鮮血にまみれて身体を無数のガラスがさゝり息もたえだえの人、首をベットに挟まれて首を吊った様な患者を目にした時、此れが話で聞く地獄ではと思い其の時は病院の中庭に直下爆弾が落ちたのだと思ったのですが、一時間もしない内に此んな状態が広島全体に及んでいる、もっとひどい状態だと知りました。傷ついた同朋や患者を南病棟の中庭に集めている内に市内の方から亡霊の様なぼろぼろな真黒な顔と衣服(黒こげの布切がこびりついているだけ)で両手を上げて無言のまゝ病院めがけて何千、何万人と長い列を作って押し寄せて来ると云う状況でした。きっと此の人達は早く治療をして下さい、助けて下さいと集まってきた人達でした。私共も其の当時職員、生徒と六百名位の人達が居た様ですが無傷で働ける人は五〇-六〇名位だったさうです。ほとんどが医療器具材料とまともに使える物はなかったのですが、日夜を問わずみんなで力を合わせて治療に当りました。夕方になり市内全体が火に包まれ、私共の寮も第一、第二、第三分寮と焼け落ちて建物の下敷になって助け出すことも出きず若い青春を炎の中で無念にも散て行った友の顔が今でも目に浮かび胸の痛みは消えません。七日、八日、と日が経つにつれ火傷をおった人達が院内の一階から二階、階段迄も横たはり水を下さい水を下さいと口々に訴えておられますが私共も交代でバケツの水を上げてはいるのですが其こ迄行きつかぬ間に息絶えた人達もたくさんいらっしゃいました。男も女も子供達も目と云わず口と云わず大きく腫れ上って此の世の顔とも云われぬ悲惨な姿でした。両手を上げていたのは皮膚がむけてだらーんと垂れ下っている事を後で知りました。此の人達もほとんどの方が亡くなられたのでせう。
夜になりますとあちこちで何じっか所も死体を焼く炎が見えて其の後で燐だけが青白く闇の中でめらめらと見えていました。私共はラジオも無い戦況も知らせられず八月一五日の終戦も知らず負けた事を知ったのは一七日頃だったと思います。勝つ迄は力の限りと生命をかけ青春をかけて戦ってきたのにと最初は信じ難い終戦でしたが心の何処かで此れで悲惨な戦争も無くなり両親の待つ我が家に帰れる、お腹一ぱい御飯も食べられると、一日も早く此の地獄から抜け出したいと思った事も事実でした。
八月二一日両親の待つ我が家(宮崎県高城町)の我が家にようよう帰り着いた時、死んだと思った娘の帰りを友や近所、肉親みんなが喜んで迎えて来れました。
現在の平和は礎となった多くの亡くなった方々の上に成り立っている事を忘れてはなりません。又世界の国々は絶対に核は持ってはならないと被爆者の一人として痛感します。
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