昨年の八月六日、久しぶりに、広島の、土を、ふみました。何もおこらなかった、ように、広島の、町は、すっかり、かわり、きれいだった。
三十九年前、元の材木町の、道ばたを、みんな、私の、同級生が、たすけを、もとめて、死んで行った、のだ、と思うと、足を、おろして、いる気にならない。夜に、入り、アイオイ橋の、トウロウ、流しに行く。川の、ほとりに、たたずみ、静かな、川の流れを、見つめていると、川の中より、おうおうと、声が、聞こえて来るようだ。あついので、みんな、川に、入って、死んで行った、と聞きました。なつかしい、町、よろこんで、帰って行く、ふるさとが、かなしい、想い出の、地で、あることが、なんて、さみしい、事でしょう。目の前に、浮かんで、来る、三十九年前の、原爆の、おそろしさを、どんなに、表現して、よいか、わかりません。ただ、戦争を、しては、いけない、核兵器を、作っては、いけない、そして、二度と、私達、被爆者、のように、なっては、いけません。爆心地、近くに、居た、人々は、一しゅんの、うちに、骨まで、蒸発しました。半径、数キロ、メートル、までは、街も、道路も、木も、草も、そして、人間も、すっかり、叩き、つぶされ、焼きつくされました。生皮を、はがれ、顔や、手足を、えぐられ、火の海の、中を、逃げまとい、そして、力つきて、死んで、いったのです。そして、生きのびた、被爆者は、あの日の、出来事を、背負って、年月を、生きて、行かねば、なりません。
原爆、核、じっけんの犠牲になった、唯一の体験者である、日本国民は、原爆の、恐ろしさ、残虐さを、世界中に、知らさなくては、なりません。
|