国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
河野 昭三(こうの しょうぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
広島市の北方郊外にある三菱の工作機械製作所で、被爆。青白い強烈な閃光が一瞬走り、間もなく爆風が広大な工場内の窓硝子を吹き破り、粉塵により暗くなる。かねて、一朝あるときは、三滝の山合いの谷間に建てていた物置小屋へ集合することとなっていたので、午後可部街道を市内に向って歩く。途中、衣服が破れ、手、足、上半身を火傷し皮膚が垂れ下った老若男女が三々五々よろよろと歩いてくる。手助けしたいがいかんともなし難し。   
 
小屋は爆風で吹き飛び座板のみ残っている。夜になって、負傷者のうめき声、水を求める声があちこちから聞えてくる。広島市街の夜空は真赤に燃え、広島城が焼け落ちるのが望見された。学徒動員で広島市役所附近の雑魚場町の建物取りこわし作業に行った修道中学二年生の弟が帰らず。
 
翌日、打越町の自宅の様子を見に行く。稲は茶色に変色し、鉄道線路の枕木はどす黒く焼け残っている。家はもちろん焼失しており、防空壕内の家財が真赤な残り火となっていた。市内方面から中学校同級のI(アイ)君が板切れを杖替りにしてよろよろと歩いてくるのに遭遇。衣服は破れ、顔面は火傷し腫れ上っている。一晩(二晩か?)山で共にするが、このままでは死を待つのみであるから、横川から頼み込んでトラックに便乗し、あてもなく可部方面に向う。可部市内の某寺に収容する。御堂内は畳を取り外し筵が敷かれ、負傷者が立錐の余地もなく横たわっている。かろうじて間を空けてもらい寝かせる。薬もなく医者もいない。
 
彼からようやく川内村(?)に親戚があることを聞き出し、探しあてて知らせる。彼は大八車に載せられて行ったが、ひと月を経ずして御母堂に看取られて逝った。母親に弟の行方も探さないで、何日も他人の世話をするのは何事かと叱かられた。その後、兄や母と共に酷暑の中をあてもなく市内を歩き廻り弟の行方を探す。累々たる屍、幼児を抱いた母親らしき遺体、長靴を履きサーベルを持っていたのは将校か、軍属が歯をむき出して横たわっている。防火水槽にはきまって数人の死体があり、市電の出入口の手すりには白骨化した遺体が突っ立っている。
 
或日の夕暮、十日市町あたりか、瓦礫の中に真黒な遺体が所々に残され、人気のない静寂な焼跡の彼方で、生き残った近郊農家の牛車用の牛が力なく「モー、モー」と鳴いていたのが胸に残る。一時茫然として放心状態となる。弟は遂に発見できなかったが、似島に収容され、二日後に死亡したらしいことが半年後に判明。骨片一切れ、シャツの切れ端が入った似島検疫所の茶封筒が己斐の某寺に保管されていた。約一〇日後近郊の親戚の農家に仮寓させてもらう。一週間ばかり寝込み、脚の各所に腫物ができ肉が大きくえぐられ、紫色に変色。同居していた放射能で頭髪の抜けた娘さんが便所に行く途中、廊下から転落し間もなく死亡。一時は死を覚悟した。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針