原爆と云えば昭和二〇年八月六日の朝いっしゅんの間、まっくらになり、同時にボーンと云うぶきみな音にそってガラスは飛び、外で直しゃを受けた人は大ヤケドをしており、そのまま立つことができず水、水と水を求めて生きたえる人、さまよう人でごったがえしていた。まるで生じごくである。
主人は支那に戦争で行って日本にはいなく、私と子供二人でした。
夏休みのこと子供二人と我家へもどりました。家へ帰っても良いと云うゆるしが出ましたので。それから何時間かたって広島市は炎に包まれていると云うニュースが入りました。
囲りはくずれていたが我家は何とか無事でした。が数日後雨がふり雨もりがひどく母の家へ行った夜我家の柱が落ちていました。そこで寝ていたら今は生きていなかっただろう。まったくの焼け野原の状態を今も頭に焼きついています。
死人を焼くにおいが鼻につき又そのそばを通ることもしばしばであった。
被爆した我子二人がその後あの世に参りました。
「すべてを失った母のかなしみ今も心に強く強くひびいてやみません」 |