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未来への伝言 被爆の体験と証言 
小島 純也(こじま じゅんや) 
性別 男性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所 広島市千田町一丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市千田町一丁目
近くは鷹の橋の繁華街 日本赤十字病院、広島大学前の道路は毎日の様に兵隊が行進し宇品から海外に出て行っていました

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日おやつを取りに床の間に行こうと庭に出た瞬間ピカーと閃光がし恐怖のあまり家の中に入って間もなくドサットと云う音と共に家の下敷になり十分位泣いていました。いとこ(十一才)が泣声を聞きつけ助けてくれました。外に出て見ますとほこりで視界は十数メートルの中写った光景は服は破れ全身やけどをし皮膚はたれさがり「イタイヨーイタイヨー」と云い乍ら同じ方向に歩いて行きました。又電柱のそばには真黒にやけた死体が有ったりしました。逃げる最中あまりにも暑いので住吉橋のふもとで筏に乗って川の水で身体を冷やして休んでいますと川の中から全身やけどのおじさんが筏に上って来ました。驚いていると薬を下さいと云いました。こゝにはないが向うに看護婦さんがいますからあそこに行けばと云うと、どうも有難うと云って川に飛び込んだきり浮かんで来ませんでした。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
八月六日は叔母(当時二十二才)が立町の職場で爆死。逓信局で被爆した父は八月九日位から身体がだるいと云って床につき二日後には黒い斑点が出来皮膚がむけました。すると父は研究するといゝ洗面器に入れてましたが十三日の夜僕の目の前で息を引き取りました。一ヶ月後には祖父が全身火傷の為廿日市の収容先で他界しました。祖母はたまたま前日食料を求めて実家である田舎に行っていましたが原爆投下の当日市内に入り家族を捜した為に放射能をすったのでしょうか二年後に原爆症で死に皆んないなくなりました。母は原爆とは関係有りませんが僕の生後十ヶ月後に病死しています。戦後は叔父に育てられましたが、叔母(後妻)も被爆しておりヒステリックな性格になって僕を毎日の様にせっかんをしました。叔父に育てられたと云うより商売の為の一労働力として食事をさせてもらった記憶しか有りません。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被爆をした人々は何十万人もいますが幸にも生きて健康でこられた中に成人の方は自分の意志で行動をし生活する事が出来ますが幼児や小児は自分で生きる事が出来ません。どちらかの親がいればまだしも、両親又は身内のいなくなった子供達がその後どの様な生活をしたか御知りでしょうか。あの戦争を始めた政治家や戦争を肯定した人々はどう思っているのでしょうか。世の中の人達が世界大戦は最初から負けるべくして負けたのだと聞かされた時自分の感情が高ぶり、国や政治家にだまされて祖父母、父、叔母は殺されたと思いました。私共の生活はそんなに豊ではないが生後四十年たって家族四人で幸福を感じています。私が心に誓っているのは人々に特に子供にはうそはつくまいと思い乍ら生きています。過去の暗い人生はもう結構です。政治家の皆様将来の日本いや世界を今一層夢多き国にして下さい。お願い致します。
  

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