大東亜戦争がいよいよたけなわとなった昭和十九年二月、私は三菱長崎造船所より広島造船所へ転勤となりました。家族は子供達の学校関係もあるので、夏休みを利用して七月の末、広島へ引越して参りました。その時、長崎市女の一年生だった長女澄子を広島市女へ転校させたのは翌月の八月でした。夜と言わず昼と言わず、空襲警報や警戒警報で、けたたましいサイレンには全く神経衰弱になりそうでした。特に女学生だった澄子は充分な勉強する暇さえなく、残念そうに救急袋を肩にかけて毎日登校していたのですが、試験前などは押入の中に電気スタンドを持ち込んで、夜の更けるのも知らず、朝の三時頃まで勉強していた事等もしばしば見受け、早く休むよう注意した事も度々ありました。大東亜戦争の末期である昭和二十年八月五日の朝、私はいつものようにゲートルをつけ、弁当を持って家を出ましたが、半町程行ってふと忘れものをした事に気がついて後退りし家に帰りましたが、玄関を出る時、セーラー服に久留米絣のモンペをはいた澄子が玄関前の道路まで出て、「お父さん行ってらっしやい」と大きい声で叫んだのでした。私は右手をあげて後を振りかえりながら急いで会社へ行ったのです。これが親子永遠の別れになろうとは全く夢にも思いませんでした。
その晩は造船所の防護団員として当直致しましたので家には帰れませんでした。翌六日午前八時十五分、異様な光は私がいた第二ポンプ室にも稲妻のようにピカッと差し込んで来ました。そしてすぐ何秒かの後にはドーンと大音響が起こり、同時に家の壁がガバッと一瞬に吹き飛ばされました。これが世にも恐ろしい原子爆弾とは全く知りませんでした。それから会社の機械は全部止まり、市内は全市一瞬にして大火災が起こり、大騒ぎとなったのです。私は午後五時まで会社を出る事が出来ず、会社より町の方が焼けているのを見る以外に、どうする事も出来ませんでした。
特に気にかかるのは、動員学徒として疎開作業に出動している澄子の事でした。ようやく午後五時会社を退社したら、正門の前に廃人のようになって全身火傷した動けないような人達がどんどん造船所に運んでこられているのを見て、ビックリしました。もしや、澄子もこんなにと思いましたので、息もきれんばかりに我が家に走って帰りました。帰って見たら、家の戸は破れ、壁は落ち、妻は頭を繃帯して、「すみちゃんは、まだ帰って来ません」と涙を流して泣きながら申しました。「ウン、そうか。澄子は帰って来ないか」と言ったまま、私は溜息をつきながら急に目頭があつくなり、両眼からあついものがとめどもなく流れて参りました。そして昨日の朝別れた時の事など、走馬燈のように私の頭に浮かんで、「お父さん行ってらっしゃい」と言ったあの可愛い丸い顔、そしてあのセーラー服を着た女学生姿を、もう二度と見る事が出来ないのかと思うと、子に対する親の愛情がヒシヒシとせまって、心臓の鼓動さえ止まりそうでした。
それから毎日、焼野原となった広島の町を、せめて可愛い子供の死骸なりともと思って、朝早くから夜おそくまで、足を引きずりながら歩けないようになるまで探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。八月十四日は市女で合同葬儀が行われました。その時の状景は私のこのつたないペンでは書き表わす事は出来ません。先生をはじめ、遺族の方々もただ涙の外に何ものもありませんでした。忘れようとして忘れる事の出来ない可愛い子供の十三回忌がやって来ました。又涙を新たにしてご遺族の方々と子供の冥福を祈ってやみません。
出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)五五~五六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |