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世界中から核廃絶の声を 
河野 昭人(こうの あきと) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 安佐郡祇園町長束[現:広島市安佐南区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島電気学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私は母と弟妹たちとともに牛田町に住んでいました。父は、当時海外に出兵中でしたが、私が早く軍人として出世することを望んでいました。軍人として戦死することは名誉なことと教育されていましたので、同級生の多くは「予科練」と呼ばれた海軍飛行予科練習生に憧れ、志願する者もいました。しかし私はどうしても戦死が名誉であるとは思えませんでした。父とはそのことでよくけんかをしました。陸軍兵器学校であれば、兵器を作るだけで、前線に行かずに済むからと父に説得され、兵器学校を受験しました。しかし、軍人にはなりたくないと思っていたので、点を取らないように答案を書き、当然不合格になりました。

結局私は中学卒業後、国泰寺町にあった広島電気学校に入学しました。しかしそこでも「いざというときには神風が吹く」と日本の勝利を信じる友人と意見が合わず、よく言い争いになりました。戦争だからがんばらなくてはいけないと士気を鼓舞するために、いろいろさせられましたが、私はつまらないことだ、何の役にも立たないのにと思っていました。

徴兵検査の視力測定で、私は見えるものも見えないと言って不合格になろうとしました。しかし他の受験者は見えなければ、線より前に出たり、片目で見なければいけないのに両目で見たりして、こぞって合格しようとしていました。このような行動は戦前の教育を受けた若者にとっては当然のことでした。

私は変わり者だったと思いますし、国の考えに反する言論や行動を厳しく統制された時代でしたので、今思えば大胆なことをしたものだと思います。

●昭和二十年八月六日
昭和二十年、私は二年生に進級しました。まだ、一年生のときは授業があって、学校近くの浅野図書館に行ったりして、一生懸命勉強していましたが、もう、戦況悪化のため授業は無くなり、軍需工場で作業を行っていました。同級生のほとんどはすでに軍に召集されていましたが、私も含めて早生まれの三名がまだ学校に残っており、宇品町にあった陸軍糧秣支廠に動員されました。糧秣支廠は、食料を加工し缶詰などを製造する軍需工場でした。その食料をトラックに積んで陸軍部隊に届け、さらに被災時の備蓄として郊外に運んでいました。私の仕事場は中継地点の安佐郡祇園町長束の「吉村酒場」で、当時は軍の作業場として使用されていました。そこかさらに郊外の賀茂郡西条町(現在の東広島市)などへ物資を運んでいました。

その日私はいつものように自宅から自転車で仕事場へ向かいました。作業着に着替え座って同級生を待っていると、突然窓の外がバッと光ったので米軍が照明弾を落としたかと思いました。爆心地から四・一キロメートルも離れていましたが、気が付いたときには二、三メートル飛ばされ、帽子は脱げ、掛けていた椅子も無くなっていました。幸い天井の高さまで積まれていたしょうゆ樽が崩れなかったので、けがはしませんでしたが、何が起きたか分からず仕事場裏の防空壕までとりあえず走りました。しかし、工員が殺到していましたので、近くの西山本(現在の広島市安佐南区)の友人宅に向かうことにしました。すると女子工員たちから連れて逃げてほしいと声を掛けられました。そのときはまだ一発の原爆による被害と分からなかったので、追撃があれば一斉にやられてしまうからバラバラになって山手へ避難する方がよいと思い、そのように伝えました。途中で降り出した雨に打たれながら、私は山中に一旦避難しました。今思えば、「黒い雨」だったのでしょうが、そのときはただ雨が降ったということしか記憶にありません。山からは、自宅のある牛田町の方向が見えました。私は母や弟妹たちが心配になり友人宅には行かずに自転車で広島市内へ戻ることにしました。午後二時か三時くらいだったと思います。三篠橋までたどりつくと橋が壊れて渡ることができなかったので、横川方面へ迂回することにしました。途中でパンクした自転車を引きずりながら横川地区に入ると、そこで初めて被爆の惨状を目の当たりにしました。市内電車は黒焦げで骨組みだけになり、馬が倒れて死んでいました。また被災した人は皆、腕を前に伸ばしたまま郊外へと逃げていました。通りかかった四、五十歳くらいの男性から頭の傷の具合を見てほしいと言われ見ると、傷口が大きく開き血が噴き出していました。気の毒でそのまま伝えることはできず、大丈夫だから元気を出して頑張るようにと伝えました。横川から寺町を抜け、電車通りを通って相生橋を渡り、紙屋町、八丁堀、白島地区を通り常葉橋を渡って牛田町に戻りました。今考えてみると八月六日の当日に一番被害のひどい場所を通ってきたことになります。饒津神社では、避難してきたたくさんの人が、倒れて水を求めていました。他にも自宅へ戻るまでの間、助けを求める人を多く見ましたが、私を含め一人一人が命がけで逃げているので、手を差し伸べることができず、かわいそうなことをしたと思います。その後、母と弟妹たちは全員無事であったことが分かりました。

また、けがをしていたため八月六日は作業を休んでいた同級生の温品君に八月十七日に会いに行きました。彼の家は水主町にあったのですが、自宅で被爆死したと彼のお父さんから知らされました。けがさえしていなければ、私と同じ場所で動員作業に従事し助かったのではと思うと残念でなりません。温品君のお父さんは「日本も一刻も早く原爆を作ってほしい。自分が原爆を積んでアメリカにも落としてやる」と言って、息子を失った悔しさをにじませていました。

また、被爆後、行方不明の親族を県外から捜しに来たという女性に声を掛けられたことがあります。その女性は道に不案内だったので、目的地の戸坂国民学校(現在の戸坂小学校)まで自転車で連れていきました。そこには息も絶え絶えの被災者が無数に横たわっていました。私は大声で名前を叫び親族を捜すのを手伝いました。無事会うことができ感謝していただいたことを記憶しています。

●私の思い
私は常々、日本がもっと早く降伏していれば、原爆も投下されずこんなに多くの犠牲を払うことはなかったと大変残念に思っています。実は私の父は終戦間際の昭和二十年七月十日にフィリピンで戦死しました。父親という大黒柱を失い、長男である私は郵便局に勤めながら、生活のために時計修理のアルバイトをしました。時計修理の技術は中学校の同級生に教えてもらいました。当時の時計は、一年に一回は分解掃除が必要でしたが、時計屋でもそれができない人がいっぱいいました。そこから、注文を受けたり、知り合いに頼まれたりして、郵便局の仕事の後、家に帰ってから夜中の一時、二時まで時計の修理をし、翌日朝の八時半には局に出勤しました。公務員ですので、本来そういうことをしてはいけなかったのですが、おかげでなんとか母と弟妹を養うことができました。でも父が生きていてくれたら、私の人生も随分変わったと思います。

もう一つ残念なことは、原爆投下時に空襲警報も警戒警報も発令されていなかったことです。発令中であればもっと多くの人が防空壕や屋内に避難して被害を逃れることができたと思います。この過失の責任はどこにあるのか、誰も問う人はいませんが、私は大変悔しく憤りを感じます。

戦時中、国民は天皇陛下を現人神として盲目的に崇拝するよう教育され、天皇陛下のためならば一人残らず死ぬまで戦うという、無謀な政策が打ち建てられました。当時の国政を担う一部の人々の誤った判断によって国民は振り回されたのです。二度と戦争を起こさないため教育の大切さを痛感しています。組織のトップに立つ人々には判断の重大さをよく認識してほしいと思います。
 
●平和への思い
世界では今も内紛などに苦しむ地域がありますが、そのような報道映像を見る度にかわいそうでたまりません。話合いで解決できるよう努力すべきだと思います。

私は被爆体験を聞きたいと求められればすぐに応じますし、マスコミからの取材も積極的に受けます。原子爆弾による被害、惨状を一人でも多く世界の人々に知ってもらいたいからです。もっと被爆者の声を世界中へ報道し、世界中から核兵器廃絶を求める声が上がってほしいと思います。そして地球上から核兵器がなくなる日が来ることを望んでいます。

 

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