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命を大切に 
河野 シズヱ(こうの しずえ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市宇品町[現:広島市南区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 宇品分室 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時私は十七歳で、佐伯郡吉和村(現在の廿日市市)の実家を離れ皆実町にある広島陸軍被服支廠の寮に住んでいました。実家には、農業を営む母の斉藤キクノ、七つ上の長女・フジヱ、三つ上の長男・偕、三つ下の三女・イツヱ、六つ下の四女・サヨコの五人がいました。

昭和十七年三月に吉和国民学校の高等科を卒業し、四月から国民学校の先生の紹介で三原市にある飛行機の羽を作る会社に勤務しました。一年間勤務した後に広島市にある洋裁学校に半年ぐらい通いましたが、戦争が激しくなり習い事をするような時期ではないと言われ、十八年九月頃に陸軍被服支廠に勤め始めました。そこには、学校を卒業してすぐに勤めていた国民学校の同級生が四~五人いました。被服支廠は出汐町にあり今でもレンガ造りの大きな建物が残っていますが、私が勤務したのは宇品町にあった被服支廠分室でした。そこは以前、大和紡績広島人絹工場として使われていた所で、当時は広島陸軍船舶練習部が主に駐屯していましたが、海岸のすぐ近くにありました。皆実町にある寮からは少し離れていましたが毎日歩いて通い、返ってきた軍服をそのまま洗濯するものと修繕するものに仕分けする仕事をしていました。

寮は被服支廠のすぐ近くにあり、四人が一つの部屋で暮らしていました。近くに兵隊さんの寮があり、若い者同士ですから、塀越しに声を掛け合うようなこともありました。当時は、食糧が不足しており、寮の食事も十分ではありませんでした。休日には同僚と一緒に広島市内を歩き回るのですが、食べる所はどこも行列ができ、行列に並んでも順番が来るまでに売り切れてしまい、雑炊一杯食べることができませんでした。本当につらかったです。

●被爆当日
八月六日、いつものように朝八時に点呼を済ませ、二十人くらいで建物の地下にある作業場に下りて行き、軍服の仕分け作業を始めたときでした。突然大きな音がして、壁が崩れ、上の方からは窓ガラスの破片が落ちてきました。何が起こったか分からず、班長の「壊れたガラスが落ちてきて危ないから、用心して出てくれ」という言葉に、みんな手で頭をかばいながら階段を上がり外へ出ました。外に出てみると、鉄筋コンクリート造りの立派な建物でしたが一部が崩れ落ちていました。点呼をとったところ三人ほど足りないので、これは大変だと急いで地下に戻り、瓦礫を取り除きながら捜しました。きっと壁のそばで作業をしていて逃げることができなかったのでしょう、瓦礫の下から三人の遺体が見つかりました。翌朝には三人ともお骨になり白木の箱に入れられていました。

その日は、崩れた建物の片づけが夕方までかかり寮に帰ることもできず、職場のそばにある防空壕に入り、そこで支給された玄米のおむすびを一つ食べました。夜になって、防空壕から見ると広島市内はすべてが真っ赤に燃えあがっていました。

●被服支廠での救護活動
翌日も朝から建物の整理に追われ、その日も防空壕に泊まりました。そして、八日か九日の朝だったと思いますが、元気な者は被服支廠に行って救護にあたるよう指示がありました。被服支廠に向かうときに初めて市内の様子を見たのですが、一面焼け野原でそれは哀れなものでした。途中、御幸橋の上には体全体が焼けただれ、皮膚が垂れ下がっている人がたくさんいました。川端ではやけどをした人たちが「水、水」と言っていました。あまりにも悲惨な光景でした。

被服支廠に着くと、そこには、既にものすごい数の被爆者が運び込まれ、大きな倉庫いっぱいにずらりと横たわっていました。みんな焼けただれて誰が誰なのか分かりません。私たちは、ここで救護活動に携わることになりました。救護活動と言っても私たちにできるのは、薬を塗り、おかゆを少し食べさせてあげるくらいです。おかゆを食べさせようとしても食べることができず、みんな「水をくれ」「水が飲みたい」と言うのですが、やけどにはよくないと言うので水をあげることはできませんでした。周りは「水。水」という声ばかりです。

運び込まれた被爆者は、お年寄りは少なく若い方が多かったように思います。小さい子どもが「お母さん。お母さん」と言いながら朝には亡くなっています。「僕はあそこの花屋の子だから、お母さんの所へ連れて帰って」と言いながら泣いている子どももいました。かわいそうにと思いますがどうすることもできません。その子も翌朝には亡くなっていました。

「斉藤さん。斉藤さん」あるとき、私を呼ぶ声がします。誰かと思い辺りを見回したのですが、みんな薬を塗られ真っ白い顔をしているので誰だか分かりません。「私よ。私が分からないの?」と言われてはじめて寮で同室の人だということが分かりました。彼女は全身やけどをしていました。佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)にいる姉の所から出勤する途中で被爆したということでした。その後は彼女の様子を見ることができませんでしたが、多分亡くなられたのだと思います。

救護に追われる日々は、終戦の日を過ぎた後も続きました。八月十五日に玉音放送を聞いたときは、みんなで抱き合って泣きました。玉音放送は宇品の防空壕で聞きましたので、その日だけは分室に行っていたのかもしれません。

被服支廠では、ずっと泊まり込みで救護をしていたので寮に帰ることもできず、着替えをした記憶もありません。毎日多くの方が亡くなり、朝になるとその遺体を山のようにして焼いていました。たくさんの人の命をいただいて今日まで生きることができたように思え、すまないという気持ちになります。

●吉和村の実家へ
被服支廠では泊まり込みで救護活動に従事していたので、この間、家族に無事を知らせることができずにいました。それで、どうしても家に帰りたいと思うようになり、八月十八日の朝、「己斐にいる親類の者が倒れているらしいので様子を見に行きたい」と寮母さんにうそを言い、友達と二人で被服支廠を出て吉和村に歩いて向かいました。帰る途中、己斐駅(現在の西広島駅)の辺りまで一面焼け野原で、とても正視できる状況ではありませんでした。己斐駅からは、広島駅の方まで見渡すことができました。

一緒に出た友達の家が途中の佐伯郡四和村栗栖(現在の廿日市市)にありましたので、十八日の夜はそこに泊まり、十九日の朝に友達の家を出発し一人で吉和村に向かいました。昼頃、自宅に着くと、ちょうど母と姉が広島市内に私を捜しに行く準備をしていました。爆弾が落ちたことを聞いてから随分日がたつのに何の連絡もないし、廿日市駅の前で私が死んでいたといううわさも聞いたようで、母は毎日泣き暮らしていたそうです。そして、居ても立ってもいられず私を捜しに行こうとしていたちょうどそのとき、私が無事な姿を見せたので二人とも大変喜んでくれました。

しかし、着のみ着のままで寮を出ていますので、家に帰っても着替えも何もありません。二、三日してから、母と姉と一緒に三人で寮に荷物を取りに行きました。そのとき広島の街にはやけどをした人がまだたくさんおり、手を前に出しやけどをした皮膚をぶら下げて歩く人の姿もありました。水が飲みたいと思って川に入ったのでしょう、川の中には死体が浮いており、それは悲惨な様子でした。

寮に着くと、建物は無事でしたので自分の荷物を片付けたのですが、一度で持ち帰ることができず、八月のうちにもう一度寮を訪れ、それで整理が終わりました。寮を訪れたのは二回だけですが、遠い道のりを歩いていくのですから、行きも帰りも途中で一泊する必要があるので大変でした。寮ではちょうどいらした寮母さんと話をし、そのときに、いくらかの退職金と軍足をいただいたように覚えています。

●被爆後の生活
被爆後はずっと吉和村におり、昭和二十二年に結婚をしました。その当時は、被爆していると障害のある子が生まれるので結婚はできないと言われていましたので、特に主人には何も言いませんでした。でも主人は知っていたのだろうと思います。

昭和二十三年に長女を、昭和二十五年に長男を、そして昭和三十三年に次女を出産しました。出産のときには、無事に生まれてくるのだろうかととても不安でしたが、三人とも無事に生まれ、大きな病気も無く育ちましたので安心しています。

私は、被爆したときにはやけどもけがもなく、体調が悪いということもなかったのですが、結婚して間もない頃白内障になりました。直接原爆の光を見たわけではないので、市内にいて被爆者救護に従事したため放射線の影響を受けたのかと思います。その後、ほかにも手術を受けることがありましたが、今は元気で、被爆の影響を感じることはありません。

●平和への思い
自分から命を絶つ人、あるいは、人の命を奪う人もいますが、そういうことのない世の中になってほしいです。せっかくいただいた命ですから、大切にして生きてもらいたいと思います。原爆が落とされ、多くの人が、「まだ生きたい、まだ生きたい」と願いながら命を絶たれました。そういう人たちの大切な命をいただいて生きているのですから、自分の命であっても、他人の命であっても、命というものを大切にしなければなりません。

今こうして生かされていることに感謝し、また亡くなられた方々のことを思い浮かべますと、戦争はあってはならないし、ましてや原爆などという恐ろしい兵器を使うことは絶対に許されないことです。一人ひとりが心がけて、安心して暮らせる平和な社会をつくってもらいたいと思います。

 

 

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