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被爆体験について 
故選 妙順(こせん みょうじゅん) 
性別 女性  被爆時年齢 35歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日の朝、台所で掃除しておりました時大きな爆音を聞きおどろいてとび出しました。

私の家は寺ですがよく本堂の屋根が光るから敵が爆弾をおとすと近所の人がこわがっていましたので外にとび出して本堂を見ましたがなんの事をなく、その中旧広島市内に大きな爆弾がおちたそうなという話が入りました。

その中旧市内の方が焼けのこった草津、己斐方面に焼けただれた体でにげてこられ、親類や知人を頼って来られ、学校は治療所になりました。義弟は青年団として学校にお手伝ひに出ました。私の長男は県立第二中学校の一年生でした。市内の家屋疎開の手伝ひに行っておりました。お友達の父、兄、の方々はみなさがしに行かれます。

私は主人は出征中で家もあけられずさがしに行くことが出来ずにいましたが夕方おそくいろんな方々のおかげでつれてかえって下さいました。

沢山探しに行かれましても沢山の死人の中で水をくれ水をくれと叫ぶ人焼けただれて誰とも分らない人や学生の間を探し廻られて見つけることが出来ず帰ってこられる人が殆んどの中にうちのように連れて帰って下さって唯、勿体なくうれしく感謝したことでした。長男はその晩は興奮状態で一睡もせず話しつづけましたが、広島の平和大橋のもとでみんな整列しているとB29が来たのでみんな整列したままで見ていたらドカンと爆弾がおちて頭からレンガがとんできて下うめになった。一時して、それから気がついて頭を出してみるとまわりは火がもえている。河には人が一杯ういていたり、歩いたりしていた。橋はおちていたから電車道を通って己斐に向ってかへりかけた。何度か人にたすけられ手をひかれして己斐までかへった時庚午の人が馬車で人を迎へに来とられてのせてもらって帰った、と話しました。本人の姿は帽子の下には毛がありましたが後はやけて顔ははれあがり、だれか分からないようでした。

しきりと水を惜しがりましたが水を呑ますと死ぬるからと云われるので、辛抱させるのがつらかったのですがその晩は辛抱させて明け方ミカンのかん詰をあけて一口やりました。それも顔がはれ上がっていますので指でおしこんでやりました。おいしかったとよろこんでくれましたが見舞いに来てくれた二年生の友達とお話をしましてバイバイと寝たまま手を振りましたが間もなく静かになったと思いましたがそのままこの世を去りました。七日の朝八時ごろでした。 

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