八月六日(昭和二〇年)快晴
五日市駅のホームでお守りを拾う
五日市発六時一七分近江八幡行の汽車に乗る。お守りは仏だんに有ります。
広島市松原町(広島駅の東)附近で被災。
銀色の飛行機がきれいに見えた。空を大八車が走った様な音がした。次の瞬間写真のフラッシュをあびた様な光の中にいた。気を失った。しばらくして息をすってみて生きていることを確認した。ガラスでひたいを切った。血が止まらないので鉄道病院に行く。(現在鉄道郵便局附近)九時二〇分頃鉄道病院がこわれているので引返す。
広島駅の石のカモイが腰に落ちて手足をバタバタ動かしている人がいた一人の手ではのけるわけにはいかない。
広島駅宇品ホームで腹から下が骨の人間がいた
どうしたんだろう。
五番線の列車の中に人がたくさん動いていた。電修場の屋根に上って市内を見通した。一〇時半頃から広島駅附近から火災が発生した。
仕事をする事が出来ないので的場町から八丁堀新天地方に行ってみた、ほとんど動く者はいなかった。つまり死の町と化した東洋座附近は火の海になっていた。
職場で弁当をたべて一四時頃空を見上げるとモクモクとした雲が物すごい様相を呈していた。空中でたゝみ空ガラス等色々な品物が落ちもせず雲の中でグルリグルリと廻っていた。下からはキノコ雲には見えなかったけれども誰にも想像の出来ない光景。
平常大きな口を開く者は一番先ににげた。職場には一〇〇人余りいるけれどわずか五人しかいなかった。つまり夜は保安要員で泊る。夜中一二時頃呉から軍隊が食糧を持って来た。誰かいますか誰かいますか連呼で目がさめた。勿論夜中再三空襲の警報が鳴る。
夜中に松本助役の引取りを誰かが知らせに来た。朝は七時半頃勤務開放歩いて帰る。
白島の道路に兵隊が並んで死んでいた。何百いたかわからない歩いていたのか人が並べたのかわからない。東練兵場では水を呉れと叫ぶ者がたくさんいた。
練兵場で泉さんに出会う。水を呉れと言うので…やらなかった。顔にホータイをしていて到底生ききれまいと思った。しかし彼は生きていた、もう年だから死んだかも。
九時頃B29か24が又来た丁度広島城の跡附近にいたのでもう助からないと思っていた。三篠鉄橋をわたって一〇時三〇分頃己斐駅についた下りの汽車が出たばかりの時だった。止むなく歩いて帰る事にする。西の踏切で橋本保おじと出会う。「市内はがたがたにこわれた。乗物もない」と保っあんに言うたら「ホイヂャア帰(イ)のう」と言って一緒に帰ることになった。己斐のしんせきの家に来たのだろうにどうして一緒に帰ろうと言ったのかわからない西の踏切附近だから一〇〇〇米もないのに…。結局一緒に草津のタオを越して帰ることになった。
峠にはたくさんの人が死んでもいたし、やけどした人がたくさんたむろしていた、けがをしていない自分の方が悪いような気がして。家についたのは丁度一二時半頃。
母は大変喜んで呉れた。 |