国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
生きているから伝えることができる 
桑本 暒三(くわもと せいそう) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市南観音町(動員先) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 三菱重工業㈱広島機械製作所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
(家族のこと)
私は当時15歳で、父の一登、母の幸子、長男の私と6人のきょうだい(弟3人、妹3人)で猿猴橋町に住んでいました。父は田中理容院に理容師として入り、店を引き継いで経営していましたが、戦争で店が続けられず、一年半位前から糧秣支廠に勤めていました。その後軍隊に召集され、昭和20年8月は人吉にいました。

祖母の田中ツギは連れ合いを早く亡くし、昭和4年頃に一人娘の幸子(私の母)の養子に一登を迎えた後、京橋町で畳屋をしている祖父の辰次郎と再婚しました。子どもが7人もいるので、私は小学校5年生になるまで祖父母が京橋町の家で育ててくれました。自分が猿猴橋町の家で暮らすようになってからは、昭和15年に生まれた三女の操子を育ててくれました。

(学校生活)
私の学校は市商(現在の広島市立広島商業高等学校、昭和20年当時は広島市立造船工業学校)で、2年南組52人のクラスでした。市商の23期生にあたります。入学して1年は勉強ができましたが、2年生の途中から南観音町の三菱重工業㈱広島機械製作所に動員されました。三菱機械は船の内部を作る工場で、私はタービンを作る仕事をしていました。南観音町へは猿猴橋町から歩いて通っていました。
 
●投下当日、直前~被爆状況について
8月6日の朝はいつも通り三菱機械へ出勤し、工場で作業を始めていました。突然ピカッと光って、工場の建物が揺れ、私たちはすぐに防空壕に入りました。そのときの爆音は覚えていません。

誰もけがはなく、しばらく防空壕に入っていましたが、先生の指示で動員されていた生徒皆は帰ることになりました。三菱機械は爆心地から離れていたので、建物が崩れることはなかったようです。
 
●避難したときの様子
市商の南組は、南観音と廿日市に分かれて動員されていましたので、中間地点の己斐へ皆で行き、午前11時頃、そこで廿日市に行っていた人たちと合流しました。お互いの顔を見て、そこで解散になりました。私は友達の高瓦英男くんと一緒に帰ることになりました。高瓦くんは軍人の息子だったと思います。 

己斐から天満町を通って横川へ行きました。街の様子は覚えていませんが、天満町付近で黒い雨が降りました。激しい雨ではなかったです。

横川駅の線路まで来たところ煙に巻かれたので北三篠まで避難しました。大勢の人でたまり場になっている場所があったのでそこへ避難し、休息していると、近くに住んでいたらしいおばさんが、焼けたジャガイモをくれたのでもらって食べました。

自宅のある猿猴橋町に帰るため、北三篠のたまり場をあとにしました。高瓦くんとは白島で別れましたが、彼のその後の行方は分かっていません。

それからどこをどう歩いたのか分かりませんが、常葉橋にかかると、一人くらい通れる幅を残して両側に第五師団(昭和20年当時は中国軍管区)の兵隊さんがたくさん倒れていました。やけどで顔がむくみ、皮膚がぶらぶら垂れ下がり、衣服はボロボロになっていました。4、5人から「水をくれ」と言われましたが、中にはそこへやっと着いて気を失い、何も言わない人もいました。2、3人に水をあげて、猿猴橋町の家に帰るためその場を去りました。そんな光景が二葉の里まで続いていました。

第五師団は明治21年に編成され、日清戦争、日露戦争など多くの戦争に参加した軍隊です。第五師団の建物は2万5,000人の人が入るほどの大きさで、その跡地に現在の基町高層アパートがあります。現在の空鞘橋の東側には中央公園広場(現在サッカースタジアムが建設中です)があり、これは第五師団の建物があった場所の南隣になります。原爆ドーム前の電車道を北側に渡って、旧広島市民球場跡地、商工会議所、こども文化科学館、ファミリープール、グリーンアリーナの辺りは西練兵場でした。

家が気になるので急いで東練兵場に行きました。東練兵場には近所の人や知った人がたくさん避難しておられました。東練兵場は広島駅の北側で、現在の光町一丁目、二丁目、若草町、二葉の里にあり、後ろには二葉山があって家は一軒もありません。よく遊びに行く場所でした。愛宕踏切を渡って猿猴橋町の家に帰りましたが、家は焼け落ちていました。時間は14時頃だったと思います。

家が焼けてしまったので東練兵場へ戻り、夕方まで過ごしました。焼けていない町の人たちがむすびを配ってくれていたので、それをもらって食べました。

東練兵場で向かいの家のおじさんの畑矢さんと出会いました。荒神町地区の避難所は狩留家の小学校と聞き、おじさんに連れられて安佐郡狩小川村狩留家(現在の安佐北区狩留家町)まで歩いて行き、20時過ぎに学校に着きました。

●避難場所にて
狩留家では国民学校が避難場所になっていました。火傷した人が暑いので外に出ていました。腕の皮がはがれて血管にうじが二匹流れているのを見て茫然とし、地獄絵そのものを見るようでした。

狩留家の学校には一週間くらいいました。ここには猿猴橋町の近所の人たちがみんな避難してきていて、私の家族は府中町の親戚のところに避難していることを教えてくれました。

●家族の被爆状況
原爆投下時、家には母と三男の勝、次女の登美子がおり、次男の侃は荒神町国民学校の校舎内にいました。原爆投下によって家が崩れ、母たちは下敷きになりました。そこへ京橋町から三女の操子を連れて祖父母が駆けつけ、祖父が三人を崩れた家の中から助け出し、母、勝、登美子、学校から帰ってきた侃、祖母と操子の六人連れで府中の親戚(祖母の亡くなった夫の姉さんの家)に行きました。火が燃え出すのが遅かったのでよかったです。

祖父は動員先へ行っていた私が帰って来ないので、家に一人残り、焼け残った電車に寝泊まりしながら、焼野原を捜し歩いていました。
 
●被爆後の生活
3日後に汽車の運行が再開したので、私は狩留家から矢賀駅まで行き、猿猴橋町の家に帰りましたが、焼け落ちていたため何もせず狩留家に戻りました。その3~4日後に、祖父母が京橋町にバラックを建てたので、一緒に住みました。

また、近所の人と、猿猴橋町にいた被災者の面倒をみたりもしました。

●祖父の死
祖父は9月の初め頃から体調を崩し、血便が止まらず苦しんで10月の初めに奇病で亡くなりました。こんな奇病があるものかと思っていましたが、後になって原爆症と判明しました。

遺体は祖母と二人で焼け残った近所の防空壕で火葬し、遺骨は牛田町の満景寺に納めました。祖父の家族の墓がある寺ですが、祖父には実の子どもがいなかったので無縁仏の墓に眠っています。

私を小学校5年生まで育ててくれた祖父のことを思うと、今でも泣けてきます。足が悪くなってから、今では墓にお参りに行く事ができません。寂しく思っています。
 
●終戦
原爆投下がありましたが、私はなにも急性障害はありませんでした。

8月15日の終戦は京橋町のバラックの中で、ラジオを聞いて知りました。

父は8月12日だったと思います。軍隊の許しを得て広島に帰ってきました。母達は親戚でお世話になっていたので家族で住める家を探しました。向洋大原神社の下にあった家を借りて住み、近所の人の斡旋で、海岸通りにある福原実巖氏の店を買い、そこで散髪の仕事を始めました。

●父のこと 

父・一登は逓信講習所を技術一番で卒業し、郵便局に就職しましたが、近所の床屋の主人と縁があり、理容師になりました。

父は床屋をしたいと祖父に相談すると、ヘアーサロン桑本に入ることになりました。父は堀川町の叔父のところで年季明けまで修業し、礼奉公もしました。叔父の息子に問い合わせて堀川町にも店舗を持ちました。

その後、理容師として猿猴橋町の田中理容院に勤めることとなり、そこで私の母である田中家の一人娘・幸子と出会い、勤め始めておよそ半年が過ぎた頃に一緒になりました。そして、昭和5年5月に私が生まれたのです。

戦後は理容院を経営する傍ら、昭和40年から国泰寺理容学校の講師となり、多くの生徒に理容技術を教えました。

父はあらゆる事が好きでした。弁論は饒舌で、卓球は中国地方で優勝したことがあります。65歳くらいから横川駅前や祇園で卓球場を開いていました。将棋は初段級で、自分が勝てるようにノート2冊ぐらい書いておりました。野球はノンプロ級で、職人さんを雇って大阪まで試合をしに行くほどでしたが、仕事がおろそかになると思い一年で止め、それからは理容業に一生懸命努め、74歳で亡くなりました。
 
●戦後の暮らし
勉強しろと言われて育ちましたが、兄弟が7人もいるので食べていかなければならず、市商に復学せず理容師の仕事に就きました。

昭和22年、17歳のときに堀川町に移り、その後、中央通りや胡町へ移転しながら散髪の仕事を続けました。広島市東区内にある理容院の講師を務めたこともあります。また、広島県理容組合の講師として20年弱勤めました。理美容組合の講師には定年はありませんでしたが、当時の一般的な定年の年齢である55歳で、私の方から辞めました。

昭和33年、28歳のときに結婚し、息子が二人います。妻は50歳で亡くなりました。お寺さんには苦労するために一緒になったようなものだと言われました。

28年前、62歳の時に体調を崩して倒れたため、店は息子に譲りました。

平成4年4月に脳梗塞、平成23年にはくも膜下出血を患い歩行に杖が必要になり、また、言葉を話すことや字を書くことも難しくなりました。リハビリを一生懸命に頑張り、普通に歩いたりしゃべったり、字も書けるようになりましたが、平成26年頃からは歩くときに杖を使うようになりました。また、平成28年には脊柱管狭窄症になり、杖に加えて歩行器を使うようになりました。そのため、昭和5年から習っていた踊り(神田山荘など様々な施設で踊っていました)を止めなくてはなりませんでした。
 
●平和への思い
今まで原爆の話は誰にもしたことはありませんでした。被爆者養護ホームに10年弱いたときは、被爆体験の話をされる人たちに任せていました。令和元年4月15日から広島原爆養護ホーム矢野おりづる園に入園し、生かされているから次の人達に伝えたい、年齢も90歳になるので話をしてみようと思いました。令和元年に1回話をしましたが、後は新型コロナウイルスの影響で話していません。

橋の上に皮膚が垂れ下がったたくさんの兵隊さんがいたこと、避難場所で地獄絵そのものを見るようだったこと、このことは私が生きているから次の人たちに伝えることができます。

世界に広まりつつある核兵器の拡散に強く反対し、人間の安全、命の大切さを守り、核兵器を無くすよう、頑張って話してみようと思い始めました。

戦争は残酷で二度としてはいけません。私たち、原爆を受けた者は当日を思い出したくないと思っていますが、世界平和を一日も早く宣言して欲しいという声を忘れてはいけません。

核なき世界を望み、人類や地球を破滅させる恐ろしい核兵器を造らせてはなりません。米中対立の中、お互いに平穏無事な世の中をつくってください。日本はリーダーシップを発揮していくべきではないでしょうか。

広島はみずからの体験を通して核兵器のない世界にするための声を内外に広げ、世界の人々と共に歴史を動かす重要な役割を持っています。

核兵器禁止条約の批准国が念願の50カ国に到達し、令和3年1月22日に発効されます。これまで運動されてきた方々に感謝するとともに心から喜んでおります。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針