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12歳で被爆して 
桒原 昭雄(くわばら あきお) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 松本工業学校1年 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
広瀬北町で、父・護45歳、母・ヒデノ43歳、妹・勝江4歳と一緒に暮らしていました。
 
私は三男で、次男・忠19歳は鉄道局に勤務しており、横川町で暮らしていました。
 
長男・清は志願して少年航空兵になり、昭和18年1月30日にソロモン諸島・レンネル島沖海戦で戦死しました。戦争末期の特攻隊は髪の毛や爪を切って残すと言われていますが、ラバウルの基地から飛び立った兄にはそういうものが残っておらず、母が大泣きしていたことを覚えています。私は兄のかたきをとろうと思っていました。
 
私は昭和20年に松本工業学校に入学しましたが、勤労動員で4月から松根油を取りに行ったり、本土決戦に備えるための穴掘り作業に従事していました。
 
●被爆の瞬間
8月6日は建物疎開作業をする予定でした。7時ごろに「お母さん、行ってくる」と声を掛けて自宅を出て、市内電車に乗り集合場所まで行きました。
 
鶴見橋の西側すぐの所で作業前に50人程が並び、先生が点呼をとっている時でした。青空に太陽の光を受けて白く光るB29を、左手をかざしながら見ていると、いきなりカッと光りました。熱線がバンときて、熱湯のような熱さに私は「うわっ」と叫んだと思います。気が付くとコンクリートが真黄色になっていました。帽子は吹き飛び、左手や顔や肩にやけどを負いました。今も帽子の跡が筋になって残っています。そして、辺りが真黒になりました。気が付くと周囲にいた生徒たちはいなくなっていて、私は駆けだしました。
 
●鶴見橋から広島駅へ
私は鶴見橋の所まで必死に走って、川岸から飛び込みましたが、ゲートルを巻いていたのでうまく泳げませんでした。その時はちょうど潮位が高く、川には海水が満ちていて、やけどしている手に海水がしみて痛みを感じました。顔もやけどしていましたが、その時は気が付きませんでした。熱さのため多くの人が飛び込んでいましたが、老人など何人もおぼれてしまい、亡くなる人だらけで本当にかわいそうでした。鶴見橋の近くには5メートルくらいの小舟が浮かんでいたので、私はそこへ一番に乗り込みました。
 
私の隣では、元気そうな若い女性が立ち泳ぎをしながら舟の縁につかまっていました。そして、顔色は元気そうでしたが、「赤ちゃん置いてきた。どうしたらいいか?」と私に訊くのです。でも、私はまだ12歳でしたので、どうですかねとか、大変ですねと言った言葉を掛けるくらいしかできず、あとは黙って眺めることしかできませんでした。あの女性とは本当にもう一度会いたいです。もし会うことができたなら、「私は生きています。あの時舟にいた学生です」と声を掛けたいです。
 
舟には次々に人が乗り込んできて沈みはじめました。橋にまた爆弾が落とされたら助からないと思い、私は岸へ上ることにしました。橋の横にあった雁木状の石段を上ると、広島駅の方向に広い東練兵場の緑の広場が見えました。そちらへ多くの人が避難していて、その後ろをついて行きました。
 
走っていると、今度は全身やけどして赤ちゃんを抱いた女性がこちらを見て、「助けてください。助けてください」と言っていたので、私は立ち止まりました。かわいそうでしたが、どうすることもできず、まわりの人たちも通り過ぎて行っていました。そのことが今でも忘れられません。
 
その後、広島駅から饒津神社の方へ避難しました。広島駅北側の東練兵場には大きな広場があり、周りには燃える建物もなく、二葉山に向かって森が広がっていたので、ここまで逃げてきて初めて安堵しました。
 
東練兵場で、全身やけどをした4歳ぐらいの女の子が「水をください。水をください」と言うので、コップについで水をあげようと思いました。しかし、大人から「やったら死ぬけ、やめえ」と言われ、水をあげませんでした。あの子は死んでしまったでしょう。全身やけどのあの子に、大人に止められても、自分の判断で水を飲ませてあげればよかったと、今でもとても強く悔やんでいます。
 
そして、二葉山へ避難しました。時間の経過はよく覚えていないのですが、山の上から見ると、広島駅の方から煙がポッポッと3カ所くらい出るのが見えました。その後、あちこちに火の手が上がり、何時間かたつと市内が火の海になった光景が目に焼き付いています。
 
翌日、自宅に帰ろうとしたのですが、やけどした顔が腫れ始め、口も開けられず、目も見えづらくなり諦めました。「ああ、これまでじゃのう」と思いました。そして「お母さん」と叫んだような気がします。でも、皆、一人一人が一生懸命で、誰も私のことなど考えてはくれませんでした。
 
目の前で枕木を重ねて、幾重にも重ねられた遺体が油を掛けられ、ぼうぼうと焼かれていきました。東練兵場には救護所ができており、白いテントを張って、何十人もの遺体がずらっと並んでいました。焼いた遺体は焦がした魚のように見え、それを見ても何も感じませんでした。もう人間らしい感性がなくなっていたのです。
 
結局、2晩そこで野宿して過ごしました。そして目の腫れが引いたので、私は家族のことが心配なので、自宅へ戻ってみることにしました。
 
●家族と再会、母の死
広島駅から山陽本線の線路伝いに横川を経由して、1人で歩いて帰りました。自宅は広瀬国民学校の隣にありましたが、校舎は焼け落ちていました。校庭では多くの遺体が焼かれたのでしょうか、骨を拾っている人がいて、大きい骨は遺族に拾われた後でしたが、小さい骨がたくさん残っていました。私はやむなく骨の上を歩きました。
 
自宅は焼けていましたが、割れた石臼が残っていて自宅の場所だったことが分かりました。でも、誰もいない焼け跡にいても仕方がないので、また線路を来た時と逆にたどって饒津神社の方に戻りました。
 
家の荷物は緑井村の正木さん宅へ疎開させていて、何かあればそこへ避難することになっていました。やけどの腫れのため満足に食事もしていなかった私は、体力が無くなりふらふらになりながら歩いて向かいました。家族に一目会いたいが、どうしようかなと考えていると、偶然友達のお父さんに出会いました。事情を話すと、自転車に乗せてそこまで連れて行って下さいました。
 
9日に緑井村で家族と再会できました。父は広瀬町にあった蚊帳を作る会社に勤務していましたが、原爆が投下された時は母と妹と一緒に自宅におり、避難する途中で黒い雨に遭ったそうです。妹は自宅の中にいたため軽傷で、後に髪の毛が抜け落ちて、坊主になってしまったもののその後は元気に過ごしました。次男・忠も横川付近で被爆し、私ほどひどくはないですが、やけどをしていました。
 
しかし、母だけは洗濯物を干している時に被爆して、全身にやけどを負い、話ができる状態ではありませんでした。母は私が緑井村に着いたその日に亡くなりました。私が帰るまで生きて待っていてくれていたのでしょう。後に、父が母の骨を拾いに行った時、父は「お母さんの骨は白くなかった」と言っていました。
 
もし、原爆投下前に警報が出ていたら、皆、防空壕へ避難していて大勢の人々が助かっていたと思います。私は軍に責任があると声を大にして言いたいのです。
 
●被爆後の生活
それから3カ月ほど、隣の八木村に住居を見つけて、今井病院に通いました。被爆時、胸ポケットに50銭札4枚を入れており、それが半分焼けていたので相当な熱線がきたのでしょう。病院でその50銭札を出して、これでよいか尋ねると受け取ってくれました。
広瀬北町の自宅が焼失してしまったので、親戚の家を間借りしたこともあります。父が五日市に家を買うまで3回も引っ越しました。
 
五日市に住んでいた頃、ABCC(原爆傷害調査委員会)で検査をさせられました。やけどの跡の治療や診察をしてもらえると思っていたのですが、ただ裸になって検査をされただけで、血圧測定や採血などもありませんでした。結果を教えてくれることもありません。人をバカにしている、モルモットのようだと思いましたが我慢しました。
 
私は家計を助けるために働き始め、学校は夜間の2年生に編入になりましたが中退しました。
 
就職した会社では、ケロイドがあるせいで、名前で呼ばれずピカと呼ばれ差別されました。ケロイドを隠すために職場にある燃料の木炭でわざと顔を汚し、気晴らしをするためパチンコをしました。パチンコなら自分の顔を見ずにパチンコ台ばかり見るからです。
 
好きな女性もできました。電車に乗ったら他に席が空いているのに、必ず1つ席をあけて座る女性がいて、やけどがなければ、お茶でも飲みにいこうよと声を掛けていたと思います。あの頃は顔のやけどの治療を無償でしてもらえる女性が度々ニュースになりましたが、会社の健康診断で治療が必要と言われても、男性の私にはそのような声は掛からなかったので、悲しい気分にもなりました。青春は女性にも男性にも平等に訪れます。私がその時期に周りからケロイドについてひどいことを言われたことは、ある意味、被爆で受けた身体的な痛み以上に私を苦しめました。
 
しかし、私は「負けちゃならん」との思いで仕事に打ち込み、一生懸命働きました。最初に3年間勤めた会社で、独学で三級ジーゼル自動車整備士、二級ガソリン自動車整備士などいくつも資格を取得し、広島電鉄へ転職してからも溶接技能者、危険物取扱者の資格などを取りました。広島電鉄では39年間現場で働き、中国管区運輸局長の表彰を受賞しました。
 
その後も被爆していることが原因で縁談が破談になったこともありましたが、20代で結婚し広島市内で生活を始めました。息子も娘も立派に育ち、自慢できる子どもたちです。今では孫もいます。
 
●原子爆弾と戦争について
8月6日に、女性から「赤ちゃん置いてきた」と言われたことや、全身やけどをした女の子に水をあげなかった時のことなど、今でも頭にこびりついていて、絶対に忘れられません。原爆の光線も鮮明に目に焼きついています。本当に地獄でした。当時、私が体験した場面を絵に描いて残したいと思っています。論より証拠で、生々しい当時の情景が一目瞭然な絵を描いてもらえれば、その絵を見た人に、あのような悲惨な戦争をしてはいけないということが伝わると思います。
 
アメリカは原子爆弾を普通の爆弾程度に思っているから戦争をやめないのではないでしょうか。また、広島であれだけ犠牲者が出たのに、長崎にまで落としてほしくなかったと思うのです。戦争で傷つくのは、世界のリーダーたちではなく普通に暮らしている人たちです。リーダーたちは、広島に落とされたような原子爆弾が、自国に1発でも落とされて、犠牲者が出てやっと気づいてやめるのかと思います。世界のリーダーたちが、原爆や戦争の恐ろしさをもっと身に染みて理解し、戦争が起こらないようにしてほしいと思います。そして、今平和な世界に生きる人たちには、その平和を大切にしてほしいと願います。 

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