被爆から六十年を経た今、あの惨状と体験を思い起こしては、「過ちは繰り返しません」を改めて叫びたい。
当時国内では毎日のように空襲。当日も朝から空襲、まもなく変った警戒警報も解除となり、見合わせられていた朝食が八時すぎ届けられた。枕辺に畳んだ毛布を台に食膳を据え箸を手にした途端、ピカッ!真白な閃光が窓を襲う。咄嗟に背伸びして窓に向かう。ドーン!激しい轟音、思わず突っ伏す。時に昭和20(1945)年8月6日8時15分。これこそ、13㎞も離れた広島の上空で炸裂した新型爆弾が及ぼしたものだった。そこここの兵舎から飛び出てきては、衝撃の激しさを訴え、はるか上空にモクモクせり上がり傘形へと伸びゆくきのこ雲を見ながら、ガスタンクの爆発だろうか、恐ろしいことだと驚き合っていた。(その頃その雲の下では、十数万人の命が悶え苦しみながら消え去っていたのである。)江田島幸の浦でのこと。
幸の浦では、航空特攻について船舶特攻の教育隊が昭和十九年設営され、既に比島、沖縄、台湾に出撃、出陣、続いて九州、四国に出陣、当時私達41~50戦隊が先輩に続けと訓練中だった。一戦隊は二十代青年将校に十代少年兵合わせて約百名が一つ舎で寝食を共にし、生死を誓い合って訓練に励んでいた。
広島警備担任司令官に急きょ任ぜられた船舶司令官から発令あり、傷者搬送、屍体処理等を主とした救援活動に焦土で野宿しながらの一週間が始まった。海を航すること7㎞宇品に上陸。倒壊の続く町並を広島へと進む。数百mで出会った乙女二人、髪は乱れ額には血、放心の態でもたれながらやってくる姿、愕然の第一号だった。丸膨れになって倒れ、水、水と咳く五十がらみの男の人に人目盗んで水を注いだ途端事切れたが、その時顔のただれに水筒の口が触れることをためらうまま離して注いだ我が心の浅ましさ、後悔の第一号だった。それにひきかえ、紺絣の浴衣を着たあどけない男児の屍体に物一つない焦土にあって真新しい莚を被うてあったが、その施し主の心遣い、感動の第一号だった。勤労動員で家屋疎開の作業をしていたセーラー服にモンペ姿の女生徒の屍体に心痛めた。傷者を担架に乗せようとして手足を握ったところ、皮膚がめくれ滑り落としたとのこと。遅く届いた夕食をとろうとして汚れた手を川で洗ったが、翌朝その川面に馬、人の屍体が浮遊していた。屍体を焼く炎を明かりとして夕食をとった。健康のままでの屍体ゆえによく燃えた。交替して帰隊の途次、白骨化しかけた浮遊屍体が目にとまり引き揚げんとしたところ、頭と胴とに離れ、それぞれに沈下した。等々限りなく思い起します。
人は個々では好まぬ争いを、国となるとなぜ戦争をしでかすのだろう。老爺の今日まで広島を訪れては、まず供養塔に額づき、水、水を耳に戻し、種々詫びながら合掌している。
原爆堂 真夏の水の 溢れおり 六雄
一杯の 水に合掌 原爆忌 妻 定子
※ 恥ずかしながら、述懐を記載する気力伴わず、年前に当地での機関紙に寄稿した物の複写をもって代用させていただきたく、同封させていただきました。適宜処理願えれば幸いです。
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