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姉の子供たちを連れて 
児島 京子(こじま きょうこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島市西白島町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島実践高等女学校4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
私は当時十七歳、広島実践高等女学校(現在の鈴峯女子中学校・高等学校)の四年生でした。
私は稲荷町に住んでいましたが、両親が実家のある豊田郡竹仁村(現在の東広島市福富町)に疎開したので、西白島町の姉の嫁ぎ先に下宿をしました。そこから学校や学徒動員先の日本製鋼所へ通っていたのですが、昭和二十年八月が近づく頃には、動員先に通うばかりで、勉強はほとんどしていませんでした。

日本製鋼所では、旋盤やミーリングという機械を使って作業をしていました。その頃の私は、神風が吹くから、日本は絶対に戦争には負けないと思っていました。

●八月六日
八月六日は電休日で、日本製鋼所が休みだったので、私は姉、姉の二人の子どもとともに家にいました。姪は四歳、甥はまだ赤ちゃんでした。一緒に暮らしていた姉の姑は、建物疎開作業に出掛けていたと思います。私は、警戒警報が解除になったばかりだったので安心して、家の中で寝ていました。暑かったので、いつもは履いているモンペも脱いでいました。

原爆が投下された瞬間のことは、寝ていたのでよく分かりません。光も音もあまり感じませんでしたが、私は本能的に、そばにあった押し入れの中に、伏せるように飛び込んでいました。そこへ二階が落ちてきたのです。外へ出てみると、家は半壊し、姉が二階の下敷きになっていました。

私は、けがは無いのに、肩や腕、体中が血だらけになっていました。玄関で遊んでいた姪は呆然としており、部屋で蚊帳をつった中に寝かされていた甥は、蚊帳がまくれ上がって、体に巻きついた状態になっていました。私は甥を助け出し、下敷きになった姉を瓦礫の中から引っ張り出しました。それが大変なことだったのかどうか、よく覚えていません。子どもたちに大きなけがはありませんでしたが、姉は足をねんざし、歩けなくなっていました。姉は私に、「子どもたちを連れて、五日市へ先に逃げてくれ」と言いました。私はまず、姉を家の近くの土手まで引きずっていき、それから泣いている子どもたちを連れて逃げました。連れて逃げるといっても、背負子も無いので、その辺りにあったひもを拾って赤ちゃんの甥を背負い、姪の手を引いていきました。姉とはそこで別れ、再会したのは終戦後のことでした。

逃げようとしたとき、ごはんを炊いていたおかまが飛び出していることに気が付きました。私はごはんについたゴミを取り除き、ぐちゃぐちゃになった弁当箱に詰めて、持っていきました。
大変な状況でしたが、子どもたちを連れて逃げなければという責任感で、随分落ち着いていたと思います。周囲は家が崩れ、水道管が破裂して水が出ている所や、火が燃えている所もありました。

逃げる途中で、隣の家のおばさんが、自分の子どもを背負っているのを見ました。その子は原爆の光の直射を受けたらしく、体がピーンと伸びて固まっていました。おばさんは「助けるから、助けるから」と言って、その子を連れて逃げていきました。

土手に上がると、そこはまさに地獄絵図でした。基町にあった西練兵場の二部隊の兵隊さんが、大勢倒れて死んでいます。数えきれないほどたくさんの死体で足の踏み場も無く、私は子ども二人を連れて、倒れている兵隊さんの死体を踏んで逃げました。かわいそうに思いましたが、そのときは自分たちが逃げるだけで精一杯でした。生きている人も皆大けがをしていて、顎の皮膚が垂れ下がり、「痛い、痛い、痛い、痛い」とうめいています。兵隊さんの一人が、「お姉さん、お姉さん」と私を手招きして呼び止めました。幽霊のような姿をしたその人は、よく聞き取れない声で、「助けて、私は岡山から来たのだけれど、妻子がいるので電報を打ってくれ」と言い、そのままがっくりと倒れてしまいました。また、看護婦さんが「助けて」と叫びながら、二人の兵隊さんを抱きかかえて逃げていました。看護婦さん自身もけがをしていて、今にも倒れそうでしたが、子ども二人を連れた私には、どうしてあげることもできませんでした。

私たちは、たくさんの人が逃げていく方へついて行きました。工兵橋の近くで川を泳いで渡りましたが、子ども二人を連れて一度に渡ることはできません。私はまず一人を連れて川を渡り、その子を草むらに待たせてもう一人を連れに戻り、また川を泳いで渡りました。その川も、兵隊さんの死体がたくさん浮いていました。戸坂の方に逃げたのは確かですが、どこまで行ったのか
は、思い出せません。

●五日市への避難
それから私は子どもたちを連れて、かねてから避難場所に決めていた、姉の夫の兄夫婦が住んでいる佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)を目指しました。道が分からないので、「五日市はどちらですか」と人に聞きながら歩きました。どこをどう歩いたのかは、分かりません。私は、服はボロボロでモンペも履いておらず、はだしだったので、落ちているものを拾って身に付け、足には拾った布や布団の綿を巻いて歩きました。子どもの足にも、布を巻いてやったことを覚えています。

五日市にたどり着くまで、何日かかかりました。夜は野宿をしたり、お寺に泊めてもらったりしましたが、お寺は救護所になっており、建物の中はけがをした人でいっぱいでした。「痛い、痛い」といううなり声が聞こえる中で、甥を泣かせてはいけないと思い、私は甥を背負ってあやしながら、夜通し外に出ていることもありました。おむすびが配られていれば並んで受け取って食べましたが、食料はあまり無く、甥に飲ませるお乳もありません。私は畑のキュウリやトマトを取って、お乳の代わりに汁を吸わせたり、姪と自分が食べたりしました。防火水槽の水も飲みましたが、水槽の中には、水を求めて亡くなった人の死体がたくさん入っていました。

とにかく子どもたちを元気で、五日市まで連れていかなればという思いが、常に頭にありました。私は十七歳でしたが、よく四歳の女の子と赤ちゃんを、はぐれずに連れて行くことができたと思います。

五日市に着くと、義兄の兄のお嫁さんが迎えてくれました。私は子どもたちをお嫁さんに預けると、すぐに西白島へ戻りました。西白島へ戻る途中、福島町の辺りを通ったとき、死んだ牛がたくさん川に浮いて流されていたのを覚えています。

西白島の家に戻ると、建物疎開作業に出掛けていた姉の姑が、帰ってきていました。姑は、大きなけがはしておらず、「京子さん、あなたはお姉さんに世話になったんだから、後片付けをして帰りなさい」と言われました。家には、姑の妹さんだったと思うのですが、大けがをした人が避難して来ていました。その女性の体にはウジがわいていて、姑が看病をしていましたが、その後亡くなりました。

私は家の後片付けを手伝った後、両親のいる豊田郡竹仁村へ帰りました。そこで終戦を迎えましたが、日本が負けるとは思っていなかったので、とても驚きました。私は思わず村の役場へ走っていき、「日本、負けたんですか」と聞きました。役場の人は、「あなたは、知らないのですか」と言いましたが、渋い顔をしていたように思います。

●戦後の生活
私は戦後、しばらく両親と竹仁村で暮らしました。昭和二十年九月くらいからは、知り合いの紹介で、豊田郡久芳村(現在の東広島市)の小学校で代用教員の仕事をしました。今でこそ便利になっていますが、当時は山を越えて通勤していました。若かったから、できたのだと思います。数年後、私は再び西白島の姉の家に下宿し、広島市内で働きました。

私は昭和二十四年に、二十一歳で結婚しました。夫はシベリアに抑留されていましたが、つらい体験だったのでしょう、当時のことはあまり話しませんでした。向こうにいるとき、木を伐採していてけがをし、足首が腫れていました。夫は国鉄に勤めながら夜は楽団で臨時のバイオリニストもしており、見合いのとき、バイオリンを持っていたのが印象的でした。

私が三十三歳のとき、夫が亡くなりました。それからは大変でした。私は一人で、三人の子どもを育てなければなりません。私は現在の西区観音町で喫茶店を開き、懸命に働いて、子どもたちを育てました。

●平和への思い
原爆については、思い出したくありません。人に話すことも嫌で、これまで原爆について家族で話題にすることは、ほとんどありませんでした。私が連れて逃げた姪と甥は、幼かったので当時のことは覚えていないようです。当時のことを、私に聞いてくることもありません。

今回、体験を話そうと思ったのは、娘に勧められたからです。私の体験したことを未来の世代に伝え、二度と同じ過ちが繰り返されないために、記憶にある限りは、話をしようと思いました。

私が見た被爆後の光景は、あまりにも悲惨でした。核兵器は、なくさなければなりません。そして、戦争は絶対にしてはいけません。平和であれば、もう死体を踏んで歩くようなことはありません。私が伝えたいことは、平和が一番大事だということです。

 

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