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被爆体験について 
小島 純也(こじま じゅんや) 
性別 男性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月五日何事もなく祖母は食糧確保の為に広島県飯室へ出かける。八月六日家族は祖父は勤労奉仕に日本赤十字社の横で被爆し全身火傷、父(三八才)は原爆ドーム近くにあった逓信局に出勤、ビルの内にいたのか火傷はしていなかったが多量の放射能を浴びたもよう、叔母(二三才)は立町の被服工場に出勤ここで爆死いまだ遺骨すら帰っていません。注:母は私が生後一〇ヶ月の時結核で死亡、後に父は再婚する。

八月五日父が床の間にカンパンを置いとくから明日の朝起きたら食べなさいと聞いていたので八月六日八時頃起き庭から床の間に行こうと思い庭に出た時上空に一機の飛行機が、ぼんやりと見ていたら虹のような閃光、恐怖のあまり家の中に入ったとたんドサットいう音と共に家の下敷になりました。私の泣声を聞き従姉が助け出してくれました。

その後祖父(55才位)は収容先で純也に逢いたいと言い乍ら八月一三日に他界し、父は一ヶ月後放射能を多量に浴びたのが原因し原爆症で死亡、田舎に行っていた祖母も家族を心配し広島市内に入った為放射能をすい二年後原爆症が出て死亡、と家族が次から次へと死んで行き、残った二度目の母も親族会議で純也も本当の子供ではないからここに居ても苦労するから実家に帰りなさいとの結論になったそうです。

それで小学校二年生の時に一人ぽっちになり、そこからは社会人になる迄叔父に育てられる間、イロいろな出来事が有り此れを喋ると愚痴になるのでその言葉は心の内にしまいます。

でもこのさまざまな出来事を想い出す度に、あの原爆がと何で家族が全部殺されなければいけないの。

日本国は此の様な人々にどう責任を取って頂けるのですか?

私の頭の中には何時もあの原爆が落ちなかったらいや落とされなかったら、アア・・・・父が、祖父が、祖母が、叔母が、私の人生も少しは違っていたのでは・・・・・・。

世界の人々の為にも、娘や息子の為にも二度と原子爆弾はいやです。

涙がとまらない・・・・・・・。
  

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