国民学校一年生(六才)の時、広島市皆実町三丁目(爆心地より二・五キロメートル)、御幸橋そばで被爆しました。八月六日はすばらしい晴天で戦争中とは思えない静かな朝を迎えました。仕事に行く人、学徒動員に行く人、学校に行く人、家事に忙がしい人で町は動きが活発になった八時一五分、一瞬にして地獄となりました。それが原爆であった事をしばらくして知らされました。
当時、父が戦死したため呉市から広島の父の実家に二〇年三月に引越して来て、祖母、母、姉、兄、私、弟の六人家族で母が一家を支えていました。戦争から家族を守るため親戚にお願いして疎開させてもらえることになりました。
昼の一二時にトラックが来るのでそれまで裏の川で泳いでこようと、姉、弟、いとこ二人と家を出ました。途中で飛行機の音が聞え皆んなで空を見上げ「B29かね。でも空襲警報ならんし、すぐ行ってしもうたけん大丈夫よ」と話しながら駆け出しました。その時私は急に水が飲みたくなり家に引き返しました。
台所で水を飲んでいたその時突然、窓の外が「ピカッ」と光ったと同時に「ドン」とものすごい音がして、真っ暗な所に閉じ込められ、倒れた家の下敷きになっていた。ケガをした母は子供達の名前を呼ぶ声に気がつき「お母ちゃん」と声を出し助けてもらうことが出来た。それから母は川に向った姉たちを探しに行きました。
その時はもう、広島市内は火の海で、なんとか火のまだ出ていない我家の前は、火傷をおった人がおお勢逃げて来ました。
その中からやっと姉達をみつけ抱えて帰って来た。四才の弟は爆風で飛ばされ、やっとみつけて帰って来た弟は顔がまっ黒ではれ上り、母が自分の服で顔を拭いた時、顔の皮が全部ペロッとむけてたれ下りました。姉といとこも、火傷をおい、見る見る腫れ上り「痛いよ、痛いよ」と泣くばかり。がれきの上に寝かすしかありませんでした。道にはぞろぞろ火傷で皮ふがたれ下り「お母さん」「水」「水ください」と家の前の防火用水に顔をつっこんで息たえた人、体が熱く川にとび込んだ人の死体でいっぱいでした。暑さで死体からはハエがわき息も苦しいほどの臭気でした。死体をトラックに積んで川岸に山に積んでガソリンをかけて燃やしていました。
何十万という人が「お父さん」「お母さん」家族に会えないまま、くやしい思いで死んで行かれたことか。幼い子供ごころに、戦争の悲惨さをしっかり焼きついて離れません。弟は四日目に息を引きとり、母は六年後に死に姉、兄はケロイドがのこり、今も心と体に傷を負って生きている。
戦争で物事は、何一つ解決しません。何の罪もない幼い子から大人まで尊い命を奪い住む所も食べる物もなくし、心に深い傷を残すだけです。戦後六〇年たった今も原爆症で苦しんでいる人がいます。今元気でも生活に体に不安を持ち生活している人が多くさんいます。世界中が平和に生活出来る日を願っています。一人一人の心が平和でないと平和は語れません。
終り
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