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ツルコの半世紀 
甲賀 ツルコ(こうが つるこ) 
性別 女性  被爆時年齢 30歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2003年 
被爆場所 広島陸軍被服支廠(広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私の青春は満州事変、上海事変と慌しき中であった時に出てきたのは私の結婚話でした。母の知り合いでも有り、私の心を踊らして花婿のいない結婚式も済み、アメリカのパナマコロンに主人も心より愛してくれる毎日でした。子ども二人も出来、貯金もできるようになり、これからという時にアメリカと日本の情勢が悪いという事が耳に入り、日本ではものの不自由と聞いていたので色々なものを買い集め荷造りも済まし、日本船がパナマに向かったということを知らされましたが船は一向に進む様子がありません。主人は白人、黒人を相手に毎日散髪を続けていました。その時警察官が来て日本人、警察に来るように、との事。主人が一人出かけると、女、子どもとも一緒に来るように、との事で警察官に歩いてついていきました。日本人がぽつぽつ集められているではありませんか。どうも戦争が始まったらしいとの事。パナマコロンよりパナマ市の憲兵隊に送られました。食事は兵隊の指導の元で作られて日本人男性が運んでくれました。子ども達はお父さんが食事を運んでくると、パパ、パパと喜びました。私たちが日本語で話しをすると、憲兵隊のケンの元にさえぎられ話せませんでした。パナマコロンは一ヶ月位でした。それから行く所も知らされず送られた所は、捕虜収容所テキサスだったのです。ここでは子ども女だけでした。男性はどこに行ったのかわかりませんでした。私たちの部屋も別々でした。食事も充分でした。三時にはおやつもでました。看護婦がいつもにこやかに身の様子を聞きに来ました。子ども達を丁寧に見守ってくれました。子どもが加減でも悪くなるとお医者さんが来てくれました。一年抑留生活が続きました。不安の毎日が続くことでした。その中またもや荷物をまとめて行く先も知らされず、着いた所がニューヨークでした。何が何階あったか判りません。高い所に連れていかれました。食事はエレベーターで行きました。なんて豪華な食事でしょう。ここで初めて交換船で日本に帰ることを知らされました。残念ながら我が子のパパは来ていませんでした。我が子はパパを探しましたが、残る日本人の通訳として残される事を聞きました。戦争の真っ只中、日本に帰る船に乗りました。ミシシッピイ川を通る時は夜は絶対に外に明かりを出さないようにと言われました。アフリカの交換地に着きました。ここより交換船で無事に帰ってまいりました。主人の生まれた所でした。しばらくして私の故郷広島に住む事になりました。長女は一年生で学んでいました。私は生活の為、陸軍陸相に勤めました。毎日7時の仕事初めまでに次女を託児所までに預けていました。戦争は激しく防空壕にかけこむ事も多くなっていました。昭和二〇年の八月六日の朝八時頃の事でした。警戒警報が解除の報道で仕事についたばかりでした。一瞬目の前が真っ暗になり、大きな調理台の下にもぐりこみました。窓ガラスは飛び散り、ものの壊れる音です。去ったと思った飛行機が後戻りして、原爆を落としたのです。夏休みの事とて子ども二人のいる託児所にいち早く私の足は向いていました。我が子の二人とも無事でした。ここに来るまでにそこらに倒れた人もいました。食料の不自由な時でもあり、炊事仕事をしていました。被服廠より一歩も出る事はできませんでした。家が気に掛かるので帰る事を許しを得て帰りました。何日かたって私たち親子も我が家へ帰りました。雨の夜、カヤをはずして傘をさして二人の子どもを守りましたが心細くなり、近くの母のもとへ行きました。またまた大きな音で家が崩れるのが分かりました。朝起きてびっくり、親子三人で寝ていた所に大きな柱が落ちていました。三人は命だけは取り留めました。住む家も無くなったので皆の話では被服廠の寮が住めるとの事。毎日いるものを持って通いました。仕事の帰りに段原から宇品に行くのです。死人を集めて焼く所に出会います。その前を通らないと道は有りません。友達が子どもを先に寮に連れて帰ってくれていたからです。そこにも長くは続きません。兵器廠の寮が有ると聞きそこに行きました。大家さんがおられて快く貸してくださいました。ここで親子三人の生活が始まりました。ここで終戦を迎えたのです。涙の敗戦でした。数ヶ月たって主人もシナより帰りました。突然の事で驚きと喜びは口では言い表せられません。原爆で傷んだ床屋の腰掛をかってきて家の前で近所の人の髪を親切につんであげていました。慣れない仕事の間の事でした。町内の事務所ができ床屋を作ってくれるとの事で、引き受けました。危うく原爆を逃れた兵器廠の中に国警本部が出来まして、そこより多くの警察官が来てくださいました。広島市もみるみる復興に向かい、警察本部もでき、その中にも床屋を作ってくださいました。私たち一家は安定した生活が始まりました。またまた我が家に悲劇が起こりました。長女三年生次女一年生でした。長女が訳の分からない手足の自由にならない病気を、おまけに心臓も悪くなり二一年八月二三日に長女康恵が亡くなりました。まだ私の涙の乾かない内に一〇月一二日に次女和恵も亡くなりました。私はどんなにしたら二人の子どもの所にいけるかと毎日仏様の前で暮らしました。私の母は近くだったので毎日来てくれました。主人は自分が兵隊より帰らなければ親子三人の生活で暮らしていただろうと愚痴をこぼすようになりました。この時三女もでき、私の心はやっと安らぎを持つようになり、家も買いました。こんな時にまたまた一大事の話が主人の兄より起こりました。主人に広島より引き上げて帰ってくるようにと近所の人と話にきたのです。実は兄は二人の子どもを亡くしていたのです。姉も来なくなって一人暮らしでした。兄思いの主人は田舎に帰る事を決めました。クワもカマも持った事の無い私は四四歳から百姓を始めました。牛は私の手綱では動きません。耕運機、田植え機、稲刈り機を使うようになっていました。現在八八歳八ヶ月の老女です。

著者生い立ち

甲賀ツルコ。父:栗原亀一、母:フサヲ。大正四年一月一日に母方片山家の実家、広島県賀茂郡入野にて栗原家長女として誕生。幼少期を広島市段原で過ごす。父は材木商、建築不動産業を営む。

二二歳の時結婚。翌年夫の住むアメリカへ。
  

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