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原爆についての体験談 
畝 義治(うね よしはる) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区広島地区司令部広島地区第7特設警備隊(中国第32043部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆までの様子
私は、原爆が落とされる前は家族とともに、安芸郡坂村上条に住んでいました。父親は早くに亡くなり、一番上の兄が関東軍で中国東北部(満州)に出兵していましたので、母親ときょうだい六人が生活していました。

昭和十七年四月から東洋工業に勤めていましたが、昭和二十年になって戦争も敗色濃厚になると、さまざまな動員が始まり、私にも六月と七月に十日から二週間くらいだったと思いますが、防衛召集がありました。そして、八月になり三度目の防衛召集がありました。兵役の対象とならない十七歳と四十五歳以上の者が、安芸郡陸地部各町村から約八十名召集され、第七特設警備隊中国三二〇四三部隊に配属されました。通称、安芸部隊といいます。

八月一日に、その年に十八歳になる同級生九名が召集され、中国軍管区歩兵第一補充隊及び工兵補充隊に入隊するのを、広島駅まで見送りに行き、八月二日に今度は私たちが防衛召集部隊を編成し、海田市国民学校に行きました。私たち安芸部隊と芦品郡の各町村から召集された芦品部隊が、学校で行う軍事教練と広島市内の中島地区で行う建物疎開作業に交互に従事しました。

私たち安芸部隊は、八月二日から四日まで、朝七時頃、海田市国民学校を出発し、徒歩にて現在の中島町まで行き、猛暑の中、建物疎開の作業をし、五日からは芦品部隊と交代して、海田市国民学校で軍事教練をしていました。
 
●被爆時の状況
八月六日朝八時頃、私たち安芸部隊は、海田市国民学校の校庭で朝礼の最中で、小銃を持って整列していました。その時、B29爆撃機が三機来襲したのですが、そのうちの一機が広島市の上空でパラシュートを投下しました。そのパラシュートを見ていると突然空中でピカッと光って、ドンという爆発音がしました。破裂時の光線や爆風はものすごく、広島市中心部から約十キロメートル離れた海田市国民学校でもその熱線を感じました。教練中でしたが、皆小銃を投げ出して防空壕に避難したので、上官が日本刀を振り回して怒り、後で厳しくしかられました。

初めは皆実町のガスタンクが爆撃されたのだと思いましたが、原子雲がもうもうと拡散し、光もものすごかったので、うわさに聞いていた新型爆弾が落とされたのではないかと思いました。新型爆弾はマッチ箱一個くらいの大きさで、宮島の島全体が吹っ飛んでなくなるといううわさでした。
 
●被爆後の救援活動
八月六日は、昼前頃からトラックで海田市国民学校に続々と被爆者が運ばれてきたのですが、どの人も血まみれで、髪はバサバサ、顔は腫れあがり、目は潰れ、皮膚が剥がれて幽霊同然の姿でした。運ばれてきた人数は、数百人くらいだったでしょうか。教室に収容しましたが、医者もいませんし薬もないのでどうしようもありません。握り飯と漬け物の食事を与え、やけどには、ひまし油や、おろし大根をつけて手当てをしました。

被爆されたすべての方から、「兵隊さんお水をちょうだい」とお願いされました。「水は絶対飲ませてはいけない」との上官からの命令で、水を飲ませることは絶対にしませんでしたが、ほとんどの人が水を飲まなくても死に至りました。本当にこの世の生き地獄でした。今でも水を求めるその声が耳に焼き付いており、飲ませてあげればよかったというと悔いも残っています。亡くなった方は廊下に出しましたが、黒焦げの死人の山でした。

目が潰れて歩行できず、「兵隊さんオシッコさせて」という女学生のお願いに面食らい、顔をそむけてパンツを下げさせたことや、目が潰れたおじいさんに「腹巻きの中にお金はいくらでもあります。何とかして下さい」と頼まれ、どうすることもできなかったことなどもありました。

坂村の方も十数人収容されてきました。見たことのある顔だと思い、名前を尋ねると名乗られました。しかし、私たちも忙しく面倒を見てあげられなかったので、坂村役場に連絡して連れに来るように頼みました。すると坂村から海田市までトラックで迎えに来られ、全員連れて帰ってもらいました。

六日夕方、状況視察・連絡の命令を受け、班長と二人で、徒歩にて広島市内に入りました。経路は大洲、広島駅前、栄橋、泉邸(縮景園)、基町と通って行きました。広いはずの道路ががれきで塞がり一メートル位の幅になっていて、歩くのに大変熱かったのを覚えています。

中国軍管区歩兵第一補充隊、大本営跡、軍司令部等を視察した時には畑俊六陸軍元帥も視察に来ておられました。広島城の内堀の蓮田には、軍人が隙間なく入ってその場で亡くなっていました。とても熱かったのだろうと思います。福屋百貨店前では、電車が鉄骨だけ残り、車内では折り重なって亡くなった方の骨の山でした。

道路はがれきで塞がれて狭くなり、歩くのも困難でした。水道管は折れ曲がって破損し、水が出っ放しの状態でした。軍馬が三頭横倒しに死んでいました。乗用車も二台逆さまにひっくり返っていましたし、石灯籠もボロボロになっており、市内一面焼け野原のため、方角もはっきりとはわからなく、福屋百貨店、中国新聞社、広島駅など残った建物で方向を見極めました。

帰路は八丁堀、的場、大洲を通って海田市国民学校に帰りました。学校に帰ると、また被爆者の手当てをし、交代で衛兵に立ちました。

翌七日は、朝早くに海田を出発し、徒歩にて基町へ向かい、広島城の内堀から軍人の遺体を引き上げて収容し、西練兵場に集めて油をかけて荼毘に付しました。熱かったのでしょう。体が上に反り返っている人、下に向いている人、水の中に沈んでいる人、陸軍病院の白衣の人、いろんな方がおられました。それらの人が腕にはめておられる腕時計は、全部八時十五分で停止していました。

中国軍管区歩兵第一補充隊の衛兵所前では、女の人が大の字で亡くなっていました。トタン板がかけてありましたが、すでに異臭がしていました。おそらく、朝早くから身内の方の面会に来られていたのでしょう。米軍の捕虜と思われる人も死亡していました。

八日、九日と同じように、朝、海田市国民学校を出発し、広島市内の中心部で死体の収容や建物の後片付けを行いました。しかし、ほとんどの家屋は木造のため全部焼失していました。残っているのは、瓦 やれんがばかりでした。夕方、帰ってからは被爆者の看護があり、ほとんど眠る間のないような状態の生活が続きました。自分自身よく続けて作業できたと思います。まだ十七歳という若さと気力で続けることができたのだと今にして思います。

そして、十一日か十二日だったと思いますが、防衛部隊が解散し、自宅に帰ってもよいということになりました。その頃には、他の病院や救護所に移されたのでしょう。海田市国民学校には被爆者の姿はありませんでした。

わずか一日か二日の違いで疎開作業を交代したため安芸部隊は助かり、芦品部隊は爆心地近くで被爆して全員亡くなりました。その時は、人の運命は紙一重だと思いました。
 
●家族の被爆と後遺症
家族では、母親と一番上の姉が被爆しました。母親は、比治山のあたりで動員作業していて、直接被爆しました。一番上の姉は、母親や坂村の近所の人を捜すために広島市内に入って被爆しました。

私の場合、原爆による障害は比較的軽かったのだと思います。ほとんどなかったという方が正しいかもしれません。勤務先で被爆者健康手帳をもらっておきなさいと言われるまで、申請をする気もありませんでした。ただ、五十代になってから白血球が減少するという状態になりました。いわゆる一種の白血病だと思います。しかし、そのために特別な治療をしたという記憶はありません。放っておいたら自然にまた白血球が増えてきたと記憶しています。結婚して、子どもが二人生まれました。子どもたちは、一時期自分たちが被爆二世ということを知り、原爆の遺伝的影響は大丈夫なのだろうかと不安視していましたが、健康優良児に選ばれるくらい健康に育ちました。

母親も被爆した場所が爆心から離れていたせいか、比較的症状が軽かったのではないかと思います。ただ、晩年になって腎臓の手術をしました。その時には私がマスクをし、帽子をかぶって、一時間位の手術に立ち会いましたが、その後七十三歳で亡くなりました。姉は今、八十六歳になり、病院に通っていますが比較的元気に暮らしています。自分が被爆者健康手帳を取得した後は、会社の同僚や同級生、近所の人、母親や姉の手帳の取得に手を尽くしました。被爆時の混乱で資料も満足に残っているわけではありませんから、非常に苦労したことを覚えています。
 
●被爆後のくらし
十一日か十二日に坂村の自宅に帰りました。解散というよりはいったん自宅に帰っていなさいという方が正しかったのかもしれません。八月十五日の戦争が終わったというラジオ放送は、自宅で聞いたのを記憶しています。その時は戦争が終わってよかったというよりは、戦争に負けて悔しいと思ったのを覚えています。みんなそうだったのでないかと思います。二十日過ぎ頃、軍の物資を払い下げるから取りに来なさいという連絡があり、海田市国民学校か坂村役場か場所ははっきり記憶していませんが、編上靴(編み上げの兵隊の靴)、軍服の上下、シャツ、戦闘帽、雑嚢などの軍の払下げ物資を受け取りに行きました。

戦争が終わってからは、広島市内に後片付けなどの土木作業に従事したり、家でブラブラしていました。母親や兄に家でブラブラしていてはだめだと言われ、ちょうど中国配電(現在の中国電力)の試験制度が始まった時期で、その試験を受けて十九歳で入社することができました。二十八歳で結婚して坂村の中国電力の社宅に入居しました。

昭和四十五年に広島・呉道路を造るということで立ち退きになるまで社宅で生活し、立ち退きを機に現在の場所に家を建てて引っ越ししました。暮らしぶりは当時のことですから、生活物資もふんだんにあるわけではありませんでしたが、そんなに不自由をしたという記憶もありません。中国電力には、六十歳の定年まで勤務し、在職中や定年後も色々楽しい思い出があります。当時、中国電力に入社することができたおかげで、現在の自分がいるのだ思います。
 
●平和への思い
病院に行った時に「畝さん、被爆の体験があるのなら、是非、広くみんなに教えてあげるべきです。黙っていたら、被爆の体験が風化してしまいます」と看護師さんに言われ、確かにその通りだと思いました。

被爆の惨状を知っていても、黙っていたのでは後世に何も残されません。だから、若い人、それが小さな子どもであってもそういう場があれば、被爆の体験の話をし、伝えていきたいと思っています。

今、過去を振り返れば、なぜカメラがなかったかと悔やまれます。あの悲惨な生き地獄をフィルムに残しておきたかったと思います。しかし、自分の人生のある限り、脳裏から離れることはないでしょう。

私は、人生で最高の人は相手の痛みのわかる人だと思います。このような人が世の中に出てくれば、この世から戦争もなくなると思います。 

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