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未来への伝言 被爆の体験と証言 
江上 計則(えがみ かずのり) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 長崎市大字土井首[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎県立水産学校製造科 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市土井首町
合併教室で吉川吉男先生の授業中、突然ピカッと閃光が走り、物凄い爆風が吹き抜けました。黒板、教科書、ノート類が飛び、実習場の壁がザーッと音を立てて崩れました。全員、防空壕に避難しました。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和一九年から二〇年にかけて、学徒動員令に依り、三菱電機、川南造船所、合同缶詰等に動員され、実質的に勉強できたのは一年生の時だけでした。昭和二〇年八月九日は、学力不足を補う為の授業だけでした。

吉川吉男先生の講義中でした。一瞬の閃光と硝子が割れる音、壁が崩れる音、空は湧き上る原子雲、ひらひらと落ちてくる小さな落下傘。何が起こったのか。今から考えると、全員が恐怖に怯えた顔をしていたことでしょう。

私は寄宿舎の拓洋寮に起居していましたが、一年生から三年生、約百人程の混住生活で、その日も寮に帰ってから、仲間と一緒に防空壕掘りに専念したものでした。

私の学校の保証人は江頭さんと云う人で、浦上の山里町に住居があり、天主堂下の坂の途中でした。恐らく一家全滅だったと思います。其の後、如何なったのか、消息は分らず仕舞でした。当時、悲しい想いをしたものでした。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後、市内通学生は直ちに帰宅。寮生は外出禁止。学校は一時休校となりました。私は福岡県出身で、交通機関混乱の為、到底帰郷不可能。止むなく、仲間と一緒に拓洋寮で起居していました。

そのうち、八月一五日戦争終結。其の後、授業が再開されることになり、寮生三年生全員と舎監の先生等が各班に別れて、市内通学生に告知する掲示用ビラを貼る為に、長崎市内に出掛けることになりました。八月一六日、先生及び同級生数名で、海岸沿いを徒歩で県庁下壬島町、長崎駅、八千代町、井樋ノ口、岩川町、浜口町、浦上川から竹ノ久保、稲佐町一帯を回りました。一面の焼土で、製鋼所の鉄骨は飴のように曲り、瓦礫、車輌、トタン板等が散乱、稲佐川には動物の死体が流れていました。帰りは、稲佐橋、長崎駅前、大波止、大浦海岸、小菅町、新戸町、小ケ倉を経て帰着しました。尚、新事態に依る授業は九月一五日より再開されました。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
私は被爆者として肉体的な損傷は皆無でしたが、今だに病床に苦しんでおられる人々のことを思うと胸が痛みます。このことは、被爆者に限らず、あらゆる戦争の被害者、そして今現在も世界中のあちこちで苦しみ、これからも苦しまねばならぬ人々がいるのだと思うと、胸がかきむしられるように感じます。何故、戦争は無くならないのでしょうか。

一人々々の人間は善良な生き物なのに、何故、争いは無くならないのでしょうか。どうか、世界中が平和な園でありますように。全智全能の何者かの出現を期待し、平和を祈りたいと思います。
  

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