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消せない記憶 
植松 基(うえまつ はじめ) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1997年 
被爆場所 広島市西観音町二丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

早朝より透き通る様な青空に真夏の太陽が照り付ける暑い一日が始まろうとして居た。八時少し前に、けたたましい空襲警報のサイレンから間も無く、B29特有の爆音が耳に入って来た。連日の事で市民もすっかり慣れきって居た。やがて警報も解除となり、デルタの軍都広島は一斉に動き始めた。私も学徒動員として、自宅より徒歩で一五分余の三菱重工広島造機製作所に出掛ける為、玄関先でゲートルを巻き、立ち上がるとやや強すぎた為、再度腰を下ろして緩め直した。時間にして十数秒内である。さあ!出掛けようとした瞬間、眼底の膜が焼きただれる程の強烈な青白い閃光に続いて、地面を突き上げる様な物凄い振動と地響きを立てての轟音。「直撃の爆弾だ!」と思った瞬間までしか記憶に無く、失神した様で有る。時間にして何分位経過したものか。父の叫ぶ声に気付いて、ふと辺りを見ると壁はすっかりふっ飛んで、後部数センチの所に太い梁も、天井板も落下して居る。僅かな空間から這い出るようにして外に脱出した。外から見た我が家は、瓦も落下し家屋は押し潰されたように傾き、崩壊寸前である。もう住み慣れた我が家の面影は全くない。今にして思うと、此の家が私達を傷付ける事なく、身代りと成って呉れたのだった。

昭和二十年八月六日午前八時一五分投下された原子爆弾は、警報も解除されて学校に、工場に、総ての市民が動きだしたラッシュ時に突然エンジンを止めて高度一万メートルの上空から侵入して来たのだ。広島市民も、婦女子・幼児・老人・・・悉く無差別虐殺の謀略で犠牲になった。卑劣窮まりない行為だったので有る。

投下地点は広島市細工町の島外科病院の上空、約五八〇メートルの地点で炸裂。濃縮ウラン(U一二三五)は中性子によって連鎖核分裂を起こし、その火球は一秒後に直径二八〇メートルの小太陽となり、地上に約七千度(推定)の熱線を照射させた。続いて衝撃波は中心より約五百メートルで、一平方メートル当たり十九トンの爆風圧となり、風速毎秒二百八十メートルと推定されて居る。この熱線と衝撃波とが一瞬にして家屋も、鉄筋ビルも、鉄橋も、そして総ての人間悉くを、焼き、叩き、破壊し尽した。

続いて致死量を遥かに越す放射能。この灰はウラニゥム、ストロンチゥム・・・・と言った半減期の長いものから、四~五十分後に降り注いだ泥状の大粒の黒い雨。この黒い雨にはあらゆる放射性の猛毒物質が含まれて居て、人々の肉体にへばり付いた。

玄関先の道路は此の世の人とは思えない異常な光景が、目に飛び込んで来た。男女の区別さえ出来ない人々が、助けて!助けて!と泣き叫びながら、約二〇〇メートル先の福島川の方へ、なだれる様に移動して行く。よく見ると、衣類は焼きただれて裸同然。髪の毛も無く、目玉は飛び出て、唇も耳も引きちぎられた様な人、顔面の皮膚も乳房も垂れ下がり、内臓の飛び出した侭全身、血まみれの人、人・・・・・。

時間が経過するに従って、その光景は一層むごたらしくなり、思わず目を覆いたく成る地獄絵図の光景が、これでもか、これでもか、と展開して行く。

今も心に残るのは、母を捜し求めて泣き叫ぶ幼子。顔は膨れ上がり、全身血まみれに成りながらも必死で母を求めて居る。こうした幼子達も群衆の群れに押し倒され、踏み潰されて行く。

こうした平和な世の中で四人の孫達の顔を見つめて居ると、あの時の光景が思い出されて来る。いつ、どんな事が起きてもこの子達は死守してやらなくてはと思う。

あの時一体、何が起きたのかさえ解らず極限状態で、無力な自分は成すすべも知らず、ただ放心状態で呆然と立ち尽くして居たように思う。

やがて私の家も焼け、黒い雨もへどろの様にカサカサに乾き、肌にこびり付いて容易に取れない。家に火が接近した頃、我にかえり裏口より二枚ばかりの畳や毛布・水筒・愛読中のトルストイ、パスカル、そしてセネカの幸福論、・・・改造者の現代日本文学全集など十余冊を自宅前の畑に運びだした。

黒い雨に打たれてボロボロに成ったこれらの書を、今眺めて居ると総てを知って居るこれらの書に何か一言、真実を証言して欲しい。

何処から誰が持って来たのか、十枚一束のムシロが所々に放置されて居た。午前中の群衆の姿も無くなり、路上に散乱した屍体は地面にひれ伏して、皆同じ格好である。腰を上げ、両手は固く握り締めて、苦痛な形相である。顔も手足もゴム風船の様に膨れ上がり、血まみれの屍体は言葉で表現出来ない。ムシロを二つ三つに引き裂いて、この方々の上に掛けて行った。

父は旧広島県立二中(現県立観音高校)一年生三二二名と四人の引率教師が本川土手(爆心地付近)で全滅との知らせで、直ちに現地へ急行した。

疎開作業の為、学徒動員で集合整列した矢先の被曝だった。全学年の動員地を指示する役にあった父は、その知らせで気が動転した様であった。

夜空は一面、真紅に染まって広島市全体が燃え尽くされて居る様に思われた。二枚の畳の上に横たわっても、全然寝付かれなかった様だ。頭痛、発熱、吐き気、鼻血、倦怠感、咳込み、腹痛、そして再三の下痢で一夜を明かす。翌朝、耐え切れぬ腹痛で畑の中にしゃがみ込む。水の様な血便が度々繰り返された。一度、咳が出始めると二~三時間に及び、生き苦しい。夕方から朝方が最も激しい。

周辺の遺体処理作業に取り掛る。昨日の屍体はますます膨れ上がってウジ虫が潜り付いて、口、目、耳、腹部・・・など、至る所傷口は総てウジ虫の巣である。

自宅より約二〇メートル先にミッションスクール(広島女子学院)に通って居る美しい女子学生が居た。上品で天女の様で、男子学生の憧れの的で有った。胸を患って居ると耳にした事が有る。次々遺体を運んで居るうちに、そのひとの家の前に来て驚いた。家は完全に崩壊して居たが焼失して居ない。

ふと、玄関らしい所に二~三人の遺体が横たはって居た。しばし足を留めてよくよく見ると、その中の一人はまぎれもないそのひとで有った。遺体の傷口からは、他の人々同様にウジ虫がごっそりと潜れ付いて居た。家屋内で被爆したのか?やっと玄関口迄、這出て亡くなったのだろう。長い黒髪がとても印象的であった。

この時、初めて合掌し急いでその場所を立ち去った。

遺体として初めて知った人との巡り合い、なんともやり切れない思いで有った。どんなに美しい人も、ひとたび屍体となると単なる腐乱した物体である。その時の私には言葉で表現出来ない、大きなショックであった。これが禅で云う「色即是空」(万物はすべて形をそなえて居るが、本来その本質は空である)と言う事なのかと実感した。会って話も出来ない程、遠い彼方のひとで有ったが彼女の死は、私の「人生観」と「死生観」に強烈な教訓を与えて呉れたと思う。

夜遅く帰って来た父は、再び教え子の遺体探しの為、早朝より出かけた。私も父の後を追って現地に駆け付けた。どの道も死体の山で家屋崩壊した残骸で容易に足が進まない。燃え尽きた家屋もまだくすぶり、足もとが熱風で熱い。それに加えて鼻をつく様な、猛悪臭に悩まされた。あちら、こちらの空き地では引き取り手の無い遺体が、幾つも山積みにして焼却されようとして居る。市郊外より救援に駆け付けた人々が、熊手で頭部辺りを付き刺して、二人掛りでで遺体を引き摺って居る光景を見て、人間も死んだら手に負えない粗大ゴミと化し、人としての尊厳さは無いと言う事を心に深く刻み込まれた。

歩けそうな道を探しながら、やっと住吉橋手前らしい川沿いにたどり着く。透明で清らかな七つの川は何処も熱くて、必死に飛び込んだのであろう・・・人々の死体で一杯である。そして水も真っ赤に染まって居た。

ゴム風船の様に膨らんだ男女の死体の中に、二~三才位の幼な子が母親から離れて大の字になって漂って居る。これらの光景は今の時代では、到底考えられない。実に痛々しくて、今も心に焼き付いて居る。

しっかりと、わが子を両手で抱きしめた母親は、子の上に覆い被さって居る。死してもわが子を離さない母親の愛・・・極限状況で、無感覚で有った私にも、あの時の感動は忘れられない。

平和なこんにち、今の人々の中には全く通じない方も居られ、「エー、うそおー」、「まさか、そんなバカげた事信じられないワー」と・・・。「私たちに限って、そんな事考えられない」と一笑に伏される。遂、半世紀前の現実も歴史から消されようとして居る。学校での社会科教育もなされて居ないし、マスコミの報道も人々を、物質中心の平和ボケに加担して、益々駄目な日本にしようとして居る。
「現実に物事が起こらない限り、人の事には無関心な者も、いざ!自分に何か起きて初めて騒ぎ出すのが常である」

川辺の一角にテントを張った救護所の様なものが目に入る。中では医師らしい人が一人で、一杯詰め掛けた患者の手当をして居た。よく見ると二本の簪で傷付いた患部のウジ虫を、一つ一つ取り出して居る。エプロン姿の婦人は、ドラム缶の様な容器からマシン油らしいドロットした液状のものを、横たわって居る患者の傷口に塗って居た。

私は、そこに群がる患者をかき分ける様にして足を運んだ。苦痛で、横たわり何かつぶやいて居る人、地面にうつ伏せになり動かない人などの隙間に、足をそっと入れて進むのだから、現地を目の前にしても思う様に進めない。

突然、私の足を力強く握り占められた。どの被爆者も、水!水! 水をくださいと訴えられたが、避けるようにして居た。しかし、こうして足を取られて水をください!と言われると、思わず左腕で抱きかかえ、膝を枕にして水筒の蓋に少量の水を口に注いだ。しかし、その人の唇は引き裂かれた様で、歯がむき出しの為水が口の中に入らない。致し方なく口移しで水を与えたら、おいしそうにゴクン・ゴクンと飲み込まれた。

貴重な水なので早速、蓋を閉めて居る間に、左膝で支えて居た頭が急に重くなり、アリガトウ!と絞り出す様な声で私の手を握ろうとして居る。元気を出して頑張ってください!という自分の言葉がむなしく思えた。その時、突然テント内でマシン油を塗って居た婦人が「患者に水をやらないで!水をやるとじきに死にますよ!」と大声で私に向かってがなり立てて居る。水を与えてしまった人を、そーっと地面に寝かせ、急ぎその場を立ち去る。

婦人から叱られた様に、水を与えたその人は亡くなられたのかも知れない。然し、あんなに僅かな水を、おいしそうに飲み、満足そうにアリガトウ!と口にしたからには、きっと「甘露」だったのだと、良い方に身勝手な解釈をした。

川沿いの土手端の水道蛇口から、ちょろちょろと水が出て居るではないか。驚いて早速水筒に水を注ぎ一杯にした。後で知ったのだが、柳田邦男著「空白の天気図」(新潮社)の書の中に、水道局員が全員交替して非常用手押しポンプで昼夜給水作業をされたとの事に驚き感激した。

目的地を目前にして、また足に絡み付かれる。死を前にした人の力強さと、その執念には驚かされる。結局、「与えてはならないと言われた水」、その水を求めに応じて少量を与えてしまう。この人は婦人らしく息絶え絶えの中、辛うじて「どうも有り難う!」とつぶやきながら体重を私の腕に委ねてくる。そーっと頭を地面に戻し足早やに立ち去る。

一度始めたら二度、三度・・・・強く求められる人々に水の有る限り与え続けてしまった。もう水を与えれば死ぬと云う事すら、頭には無かった様に・・・・・。死を寸前にした人々との巡り合いは、幾十万人中のほんの僅かな方達かも知れない。只、突然の原爆被爆者同士と言う共通の意識が、同じ環境の中で死と生とに二分されて、水を与える者と与えられる者とに成ってしまった。

あいも変わらず、B29が低空で大きな機体を見せながら、轟音を響かせて頭上をかすめる様に旋回して居る。殺すなら殺せ!と死に対する恐怖感が全く無い。

こんな、むごたらしい地獄絵図の中に居て、生かされて居る自分も死は時間の問題と思って居た。この時程死に対して恐怖感も無く、無感覚だった事はない。水を与えて亡くなったであろう人々に、「頑張って下さいよ!私も必ず後に続きますからね!」と真剣に誓ってから早半世紀、奇跡的に生かされて来た。

やっと原爆中心地、本川土手広場に辿り着いたのは午後二時を過ぎて居た様に思う。距離にして約一五〇〇メートルで普段なら二~三〇分の所なのに三~四時間を要した。

現地に到着して先ず目に入った光景は、何とも言葉では言い尽くせない惨状。これがこの世に起こり得るものかと一瞬、目を疑った。まるで、絵で見る地獄以上の現実を見てしまった。今の世の人々には説明のしようがない。

辺り一面焼け焦げた異臭と、吐き気を覚える腐乱した死臭で気が遠く成りそうだった。数え切れない丸太の木材が、黒焦げの様に成って折り重なった死体が、所狭しと散乱して居る。男女の区別は全く解らない。どれが二中の生徒なのか、まして氏名など確認しようもない。この地には家屋の疎開作業で広島二中一年生以外に、県立女学校、市立女学校、・・・など、低学年生徒が多数参加して居たと聞く。一瞬約七千度余の熱と衝撃波に、焼かれ、打ちのめされたのだろう。遠方からわが子の安否を案じて駆け付けられた身内の泣き叫ぶ声、わが子とも確認出来ぬ遺体を抱きかかえながら、我が子の名を呼び、泣き叫ぶ母親、狂乱状態で遺体から遺体を抱き起しては確認している身内・・・・中には今日持たせた弁当箱や、そのなかみからわが子を確認しようとされて居るが、熱で弁当箱は溶け中身は黒焦げに成ってしまって、確認のしようも無い。遠方で父が半狂乱状態で教え子を捜し求めて居る姿を見付け、父の元に駆け付けた。父は無差別に教え子らしき遺体を、一か所に集めて居る様だ。然しその中には女子学生とおぼしき者も有り、私はそれらしい遺体は他の場所に移動させた。目を真っ赤に腫らした母親がわが子の遺体探しに疲れ果て、半焦げの帽子を手にして「どなたのか解らないが、二中の生徒さんのらしいので頂いてよろしいでしょうか?」と父に尋ねて居られた。力尽きて、しょんぼりと肩を落として引き帰られる姿が痛々しい。この遺体探しと処理作業は四~五日続いたが、果たして何人が確認出来てご両親のもとに引き取られたのか、定かではない。

学問を志して名門校に入学して四か月。まさか、この様な悲劇が起きようと誰が予想し得たであろうか。

若い蕾を一瞬の内にむしり取った、残虐非道な戦争の犠牲者に対し、誰がこの責任を取り得るのか?国の為に非戦闘員は虐殺されても致し方ないのか!また、米国もこんな騙し打ちで何の罪も無い老人・婦女子・幼児・そして未成年の学生悉く、無差別な殺戮行為は、明らかな国際法違反である。もし自国だったら・・・・・どうだろうか?

どんな事が有っても戦争は絶対にしてはならない。まして、民主国家を自負して居る米国のなすべき事ではない。

痛恨極まりないあの日の事は、決して忘れられない。米国と日本政府の無関心・無責任さを、私は終生許さない。例え、死しても未来永劫に。

この時、犬死した幾十万の義精者の事も忘れて、浮き浮きと、物欲とエゴ丸出しの日本人にも深い怒りを覚える。貴方方は誰の犠牲に依って、今の平和があると思いますかと、尋ねたい。そうしなければ亡くなった人々に申し訳ない。今の平和はたった「二発の原爆投下」が無ければ、竹槍を持って突撃し、火炎放射機の餌食と成って居た事だろう。あの二発の原爆が、戦闘意欲を失って、一億玉砕から救われたので有る。あの、原爆投下が無ければ今の豊かで平和な日本は存在して居ないし、日本国民も存在して居なかっただろう。きっと天国で今の日本の姿を見て何と思って居られる事だろうか・・・。

さて、敗戦五〇数年を迎えるに当たり、今日まで生かされた私にはあの修羅場を体験して、僅か一~二秒早く家を出て居たら私の運命はどのように成って居ただろう。きっと火傷して、水を求める立場に成って居ただろう。火膨れし傷口からはウジ虫に食い荒らされながら、苦痛でもがき苦しみ、水!水!水!・・・・を下さいと人々に乞い叫んで居たに違いない。私は、この事が心に焼き付いて、生きて居る限り「消せない記憶」として脳裏に残る。二~三十万人の人達の苦痛な叫びが未だに消せない。此の人たちの遺体は、虫けらの様に扱はれ、大部分が「お通夜」も「葬式」もして貰えなかった。

今日の豊かで平和な時代、葬儀屋の言いなりに成って、盛大な葬式をすることが立派で、名誉とさえ思う風習が定着して居る。

人それぞれ人生観も死生観も異なるが、見栄や名誉を見せ付ける様な葬式には賛同出来ない。私は過去の体験から、人様にも身内にも決して迷惑掛けず、やがて来る自分の死後は世の為、医学の為に貢献出来るものは、ないものかと久しく考え続けた。

空しく他界された多くの恩師、学友、後輩、友人、知人、そして見知らぬ人々の遺体に接し、死寸前の人達との僅かな触れ合い・・・此の人達は言いたいことも口に出来ず、無念の思いで亡くなられたのだ。それや、これやを思うと私の決意は自然に固まった。

この七十年余、多くの方々への感謝・報恩、被爆犠牲者への供養の為にも・・・・・。フルコースの死の灰を体内に受け入れて、時限爆弾をかかえながら生きて来た。体調も思わしく無く、幾度か死を予感させられる事も有った。突然の鮮血尿・発熱・頭痛・白血球の急激変・言葉に成らない倦怠感・朝夕の激しい咳込み・精神的不安定・・・・・・などなど。人に語る事もせず、耐え抜いた半世紀で有った。

あの地獄の中で奇跡的に生かされた者として、人々に理解や同情は必要としない。只、絶対にあの様な事が後世の人達に体験させてはならないと云う信条が、言葉として出る。然し、今の戦後生れの人の中には、疎ましく思って耳も貸さない方達も見受けられる。

このような方達は、放射能に付いての知識も、関心も持ち合わせて居ない。色も無く、見えず、臭いもない物には至って寛大なのだ。私達のこの苦痛は、もう私達だけでよい。然しこうした人達は、実際に体験しない限り解って貰えないのだ。大変悲しい人達だと思う。

さて、早速広島大学医学部に献体の意志を伝えたら快く受け入れの通知が来た。然し、遺体の輸送方法に問題の壁が生じた。こうしたさ中突然、東京医科大学解剖学の内野滋雄教授より電話が有った。日本篤志協会から耳にされたとの事で、取り敢えず私達が引き受けて、腐乱処理を施し広島大学の知人教授にお渡し致しましょうとの懇切な申し出に、感謝感激した。あたり前の事があたり前で無くなった昨今、この様な親切は身に沁みて嬉しい。人様に迷惑を掛けない様にが私の信条なので、広島にこだわらず、この教授に一任する事にした。ちなみに私の献体番号は二五一三、アイバンク登録番号(失明した人達への角膜提供)は二二三一〇五である。

「原爆を 受けしわが身も 朽ち果てば 医学に献じ 永久(とわ)に証(あか)さん」

「放射能 わが肉体宿りて 半世紀 今も仲良く 抱きて生きる」

*先日、東二軒隣の「I」さんの奥様と、偶然川べりを散歩して居てお会いした。家内を車椅子に載せたままの出会いで有る。三十分ばかりの立ち話で「父はあの原爆の投下で日本が敗戦に成っていなかったなら、特攻機で数か月後に出陣してこの世には居なかったことだろう・・・」と耳にして、大変感激した。この半世紀、この様な言葉は一度も聞いたことが無い。川越の大きなお寺のご住職の娘さんで有る。犠牲の被爆者も天国でさぞかし喜び、満足されて居ることだらう!「原爆の話を聞いて上げた!」と申された平和ぼけの人達の事が耳に入り、戦争を知らない今の人達だと諦めて居ただけに、半世紀過ぎても心得て居る方も有るのだと思うと嬉しい限りで有る。過去の歴史を忘れた国民・国家は必ず滅亡すると信じて居る。今、偶然に出来た人生ではなく、先祖代々が営々と築いて来て下されて、その恩恵によって今日が有る事を忘れてはならないと思う。合掌

 

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