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原爆当時の回想(過ぎ去りし六五年前を偲んで) 
梅田 實(うめだ みのる) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

あの時八月六日、恐ろしく悲惨な姿手首を折曲げ腋の下より剥げた皮膚を垂らし半身裸悪鬼に追われる灼熱地獄幼年期にお寺で見た地獄絵、悪い行いをすれば死の世界へ向かうこの恐ろしい絵が、遠き何百年も昔に既に想像し描かれていたさながら全く同じ姿を眼前にした時の恐怖は今も脳裏に焼き付き離れません。

毎年八月六日に「原爆死没者慰霊祭・平和記念式」が平和公園で行われます。一発の爆弾で想像出来ない多くの非戦闘員二十数万人の死傷者を出したこの恐ろしく無慈悲な原爆を、絶対二度と原爆を使われない世界であって欲しいと、心から願う一人ですが、残っている少ない被爆した方々の口には言い表せない苦悩をあたかも当事者の如く、「原爆許すまじ」の名の下に組織を作り激しく争い弔辞を祈り捧げる姿を見る時、私の心の中に何か打ち解けない気持ちがしてなりません。その様子に今日まで私は一度もこの慰霊式典に参拝した事はありません。

平山郁夫画伯も同じく原爆に遭われた一人として永年にわたり、原爆の絵筆を取られなかったと聞きます同じような心境で居られたのでは無いかと思います。

あの日より六十五年も経ちました。既に膨大な原爆に関する資料とその時の悲惨さが書かれ写されております。今更ながら回想を書いても仕方がないと思いますが、現在原爆症認定問題は訴訟にもなって居りますし多くの情報が流れて来ますなか私も傘寿を迎える年齢になる事を考える時に何時健康に異常を憶え原爆症に罹るかもしれない恐れを抱きながら、僅かの行く末を思い我が子・孫に、私自身が見聞きした原爆に有った時の状況を伝えるべく当時の記憶をたどり回想を記す事にしました。

昭和二十年八月六日の空は快晴、この日が日米戦争の激戦最中の日と思えず雲ひとつなく穏な青空の明るい朝日の輝くなか、学徒動員の一人として住まいより約四キロ離れた広島市の北西にある山陽本線己斐駅(現在西広島駅)で乗車―横川駅―広島駅経由―向洋駅に汽車通勤をして居り午前八時頃向洋駅に到着しました。

当時私は十四歳、旧広島県立広島第一中学校二年生(現在国泰寺高校)で、東洋工業(現在マツダ自動車)本社工場にて、エンジンピストンリングと鉄砲部品を研磨する工員さんの手伝をしておりました。

向洋駅に到着すると先生からの連絡がありました。次の広島駅行き便に乗り広島市鶴見橋近くの家屋疎開作業(焼夷弾による爆撃に延焼を防ぐ為に家を壊し道幅を拡張する)応援に行く様に指示がありましたので向洋駅前広場にて広島行き列車の来るのを待ちました。当時工場は資材が不足し思うような仕事が有りませんでしたが、勤務は昼と夜の二交代制なって居り、当日の夜勤組は工場でなく広島市鶴見橋付近の疎開作業に直行し、私達昼組は工場勤務となって居り私を含め約十人居たと思いますがこの連絡指示を受けたのです。

当時B29来襲の時は、空襲警報のサイレンが間断なく激しく鳴り敵機来襲で市民に退避すべしとの合図でした。私はこの広場で澄み切った青空の広島市方向上空を何気なく眺めていると約八十度方向の高い空にキラリと光る機影が見えました。空襲警報のサイレンが鳴らないのは我が日本の飛行機かと思う間もなく、真白い落下傘が開き落ちるのを見ました。友達も口々に落下傘だと叫び合うと同時にピカつと強力な閃光が走りました。爆撃を受けた時は先ず地面に伏し両耳を両手の親指にて塞ぎ・中指で目を押さえ身を守る様に訓練を受けて居りましたので、咄嗟に地面に伏しこの防御動作をしました。しかし瞬時に私は光った方向に無意識に顔を向け見たのです。

当時向洋駅前より広島方向は民家が少なく高い建物もない見透しの良い広場でした。六十五年が過ぎた現在も鮮明に覚えて居ります。順序は覚えていませんが黄・赤・青等の原色スペクトルの閃光が順次流れて来ました。爆発時の光線です。一瞬眼光が失われるのではないかと非常に不安な気持ちになりましたが恐いもの知らずと言いますか眺めたのです。世に言われる「ピカドン」のピカです。光が順序で流れてくる驚愕(きょうがく)の一言でした。

爆心地と向洋駅は直線距離にして約五キロメートルあります。閃光の直後、唸るような凄まじい轟音のドンと強い爆風に晒されました「ピカドン」のドンです。周りの家屋のガラス窓や瓦が吹き飛び壊れる音に生きた心地はありませんでしたが幸いにも怪我も無く無事に立ち上がる事が出来ました。

無意識に瞬時向けた私の目は閃光直後より原子雲の立ち上がり初めから眺めたのです。火山噴火の様な黒い噴煙が地から濛々と立ち昇り始め、上昇と共に次第にドーナツ状の大きな雲に変化し広がり、その雲の中心は紅蓮(グレン)の小さな塊から段々と溶鉱炉のドローと流れ出す炎の様な塊となり、渦を巻きながらグルグル回転し竜巻雲のように轟音をたてドーナツ雲に包まれ高く上昇してゆきました。現在原子雲を撮影発表されているキノコ雲変化の姿を爆発の瞬間よりはっきりと眺めたのです。突如として激しく燃え上がる火山噴火の如しと表現してよいのではないでしょうか。

周りを見廻すと殆どの窓ガラスは割れ屋根瓦の破片などに足の踏み場のないほど飛散して居りました。危険を避ける為にすぐ向洋駅舎へ走り込むと真っ先に眼にしたのが待合室の壁掛け大時計で少し傾き八時十五分で止まって居りました。幸いにも同僚全員無事でしたが駅員の方は同僚と待合室に居た人々の怪我の救助に慌ただしく走り廻って居りました。当然の事ながら汽車は来ません。

工場に行き指示を得ようと瓦礫(がれき)を片付けながらの(約五百メートル)東洋工業第二門より工場作業現場に行きました。大きな工場故相当の被害者が有ると思って居りましたが案外作業棟の屋根・壁の被害はあるものの、幸いにも人的被害は思ったよりも少なく一瞬機械の下にもぐり避難、遅れた人達が屋根スレートの落下ガラスの破片等で怪我をした様子でした。以前東洋工業はコルクを生産していたそうで屋根の下地にコルク板を断熱材として使用して居り、工場爆撃を受けた際は燃えやすいコルクなので炎上を食い止められないと判断されたのでしょう。数週間前迄に全面撤去されたのです。もしこのコルク下地が有れば怪我人は未だ少なかったのではと聞き正に運命の皮肉を感じた次第です。

通信網の破壊で関係各所と連絡を取るも全く連絡が取れず、この状況不明下では又の爆撃も有るかも知れずそれを避けるために避難場所になっている府中町(現在の柳ケ丘付近)の山に急いで避難する事になりました。当時工場の大切な重要機械(主にドイツ製)を守る為府中町北側山中に疎開させるトンネルを掘って居りました。位置・大きさは覚えて居りませんが私は何日か動員で穴掘りに行った事がありますので、急いでそのトンネルの避難場所に向いました。

トンネル近くの峰に到着すると警備中の兵士が広島方向を観て居りましたので「広島の何処が爆撃に遭ったのですか」と聞きますと「峰から見る処では比治山周辺から、広島ガスのガスタンクにかけて凄い爆弾でやられたのではないか」これ程の原爆により大惨事になっているとは兵士も夢にも思って居りません。眺める広島市は黒煙に覆われて全然見えません。時間は前後の経過を推定すれば十時前後でなかったかと思います。この峯より観測すると我家は比治山を越え直線方向に向かって西方にあり助かって居るのではと儚い思いをしたのです。広島は炎上中で黒煙に覆われて居り様子は全く分かりません。十二時頃だったでしょうか円状雲の後は全く警報も連絡もなく、不安の気持ちを持ちながら何時までも此地に居るよりか山を下り各自家に帰ることにしようと相談決意したのです。

山を下り東洋工業前の(旧二号線)道路に出ると、広島よりあの幽霊の姿をした被災者の人々の流れに出会いました。驚愕、皮が垂れ真っ赤に焼け爛れ、大きく腫れあがった顔・着衣の無い人・全身襤褸(ぼろ)を纏った様な火傷の姿、上着が有れば下着無し半裸の姿に何を聞いても殆どの人が無言でした。丁度私達が疎開作業応援に行く事になっていた現場より同僚の城田君が船越の自宅に帰る道中にばったり会ったのです。大きく腫れ焼け爛れた顔、忘れもしない友達の顔が全く誰か判別出来ずそれも胸の名札で「城田君」と判ったので、「城田君」と大きく声を掛けました。哀れな力の無い返答があり疎開作業中の学友の惨状は、先生共同僚全員が怪我と火傷の姿で四散してしまい、正に生き地獄の姿だったと聞きました。

この惨状の姿を見残酷さに胸を締め付けられる思いがしたのです。この状態を如何なる言葉で表現にしたらよいのでしょうか。私には表現出来る言葉が有りません。唯々心より悲しさ・恐怖と・怒りに手を合す他は有りませんでした。

現在平和公園にある「広島平和記念資料館」にて展示されている「秋田耕三君」のボロボロに焼けたカーキ色の衣服は、私と同じクラスで手の届く机で声を掛けあった秋田君が被災した時着用していた衣服です。見て下さい。今も目の前にありし日を想い出します。顔・声を昨日の事のように思い浮かべ「秋田君」と話しかけたい気持ちがして参ります。城田君と同じ現場で惨状にあったのです。

紙一重の運命とはこの様な事を言うのでしょうか、僅か一週間前に私の都合で夜勤組より昼勤組に移動させてもらったのです。この移動がこの惨事より私を助けて呉れたのです。人それぞれの持って生まれた運命と言いますが非常に複雑な感情を憶えます。もし組変えをさしてもらっていなければ今日の私は秋田・城田君と同じ惨状に遇い命も失って居たのではないでしょうか。

とにかく何としても早く我が家に帰ろう、向洋駅前で待っていた約十人の中の同僚田頭清秀・寺尾秀男両君の自宅が同じ西方向なので、申し合わせ三人で道路と鉄道路線を伝って行けるとこ迄帰ろう、不安な気持ちを持ちながら三人なら何とかなると思い帰途につきました。出会った被災者の姿に私の家族は如何して居るだろう無事でいてほしいと心から祈り願い出発しました。

避難場所よりマツダ本社玄関第一門前に出たのは十三時頃だったでしょうか。山陽本線鹿篭(こごもり)踏切より下り広島方向に鉄道線路の枕木の上を一歩々跨ぎ出発しました。大洲~蟹屋町を過ぎ広島駅東線路脇の米穀倉庫が激しく炎上中を眺め避けて通り抜け、操車場を含めた広島駅も炎上中、駅の手前東側の踏切りを北に迂回尾長方面に、広大な東練兵場(現在のマツダ野球場は一部分で光町・光ケ丘全部)の北側二葉山の裾を通り、東照宮下の道より二葉の里―鶴羽根神社前を抜け―常葉(磐)橋の鉄橋にたどり着きました。東練兵場の周囲を約四分三を歩いた事になると思います。練兵場に二・三ケ処救護所が出来て居り横臥している人・治療を待つ人の行列が出来ておりました。

常葉(磐)橋鉄橋に差し掛かると鉄橋の中央に貨物列車が停車、数両が横転木部が殆ど焼失しており所々の残り木がボヤの状態、機関車の中では機関手と機関助手の二名の方が死亡している様子でした(長尾君の言)。怖くて私は確かめる事が出来ず何とか枕木を跨ぎ川に落ちない様夢中で渡りました。渡りきると白島町です。其れまでは気が付かなかったのですが線路周辺一帯が濡れているのに気付ました。黒い雨が降って濡れて居たのです。映画にもなりました放射性物資を含んだ「黒い雨」が降った後なのです。太田川に架かる三篠橋の北側の鉄橋を渡り横川駅手前の踏切で安佐郡船越町(現在広島市南区緑井)に帰る寺尾君と別れました。

横川駅に辿り着きますと駅は既に全焼し柱も無い無惨な平面の姿です。此処が駅だったのかと見たのはプラットホームの全面に横たわっている人達です。既に死亡している人や火傷・怪我をした人が臥して隙間も無いほど一杯でした。その時耳に残るのは「兵隊さん水を下さい」と叫ぶ被災者の声が今も頭の中に残って居ります。何もしてあげる事は出来ません。ホームとホームの間の鉄道線路を無慈悲にひたすら下を向き無言で通るしかありませんでした。正に生き地獄の姿を見たのです。

打越・山手町の線路右側は山です家屋は少なく静寂の山裾、左側は広島市の破壊消失された無惨な姿が一望出来る中を通り己斐駅(現在西広島駅)手前の己斐橋を渡り田頭君は天満町の家に、私は西観音町の我が家に向い別れました。此れまでの鉄道線路の歩行距離は向洋駅西鹿籠(こごもり)踏切より己斐駅手前迄、枕木を約十キロ跨ぎ東練兵場周囲を三キロメートル、計約十三キロメートルを歩いた事になるとおもいます。

己斐橋より福島町を過ぎ西大橋(現在の旭橋?)の中央アーチ状の橋の頂点上に立ち眺めると、広島市内は殆ど焦土と化して居り、見えるはビルの姿ばかり大手町の大正屋呉服店のビルがぽつんと建っているのが一番印象に残っています。己斐橋より我が家は約四キロメートルありますので帰途は約十五キロメートル歩いた事と思います。

我が家は西観音町二丁目五二九番地の家と歩いて五十メートルの観音本町の別家と二軒が住まいとして居りました。家は義兄一家五人が住まい、別家は父母と私三人が住まいとして居ました。父が家の方の西観音町内二丁目南部町内会長をしておりました関係上、住所は全員家の方に登録して居りました。家は旧広島県立広島第二中学校(現在観音小学校)隣南側塀沿いの南東角、東道路は広島電鉄天満町駅より南三菱工場行きの(幹線道路)十二間道路と呼ばれ、当時広島市の中で有数の広い幅の道路、其の通りに面した角が家です。橋の上から眺めると倒壊と消失の境への様であり無事を願い辿り着きますと二軒とも全焼して居りました。別家が焼失の南端だったのです。別家は広島市立商業学校(現在の観音高校)の北隣でした。

市立商業は全焼して居ました、両隣は焼失より助かり倒壊の状態でした。その家人から聞くと別家はこの市立商業の炎上の飛び火が焼火の原因だったと聞きました。

家族は主家の道一つ隔てた観音町交番前の畠に蹲く(うずく)まって居りました。父は両手両足を火傷のため白い襤褸(ボロ)布で包み、母は火傷で倒壊の中ようやく持ち出した布団にくるまり臥し、義兄はガラスの破片が体中に刺り血だらけの状態になりながら長男政則を抱えて居りました。甥・長男政則(当時五歳)は頭部に梁の出杭にささり、頭蓋骨が五百円銀貨位の円形に陥没、瞼も切り頬も耳の方まで切り裂かれている重症可哀相な状態でした。甥・二男治朗(三歳)・三男安則(一歳)は無事に居りましたが姉は足の腿をトタンで切り軽症ですが包帯をして居りました(原爆時に受けた傷は治り難く数ヶ月も苞帯が取れませんでした。医師の談)町内被災者の世話に忙しくして居りました。

この姿がたどり着き見た我家・家族の当時の悲惨な姿でした。

被爆した瞬間を家族がどの様な状況で遭い対処したか聞き又記述した事を記します。

父(梅田稔穂) 家の前の道路に居た。白い衣服を着た所は無事で露出していた首の一部と両手両足の露出部分が火傷した。しかし光ると直ぐに板塀に隠れたのでこのくらいで済んだ。火傷が痛いが、町内の疎開作業に行っている義勇隊の人の事が非常に心配だと申して居りました。

母(梅田うめ) 脚絆を道路にいる父に渡そうと家より出た所をB29が私の周囲に多数の焼夷弾を落として行った。悔しい。露出部分の首・両手両足そして両乳房の間、胸を火傷をして痛い痛い(その時母は青と白の混紡に黒のボタンを付けたワンピースを着ていました)後日診療に来られた医師の話では母の致命傷はこの黒ボタンにあり、原爆の放射線が黒ボタンを透し内臓を破壊したのが死の原因と聞きました。

義兄(淵脇政市) 家の南廊下で子供達と遊んでいたが、警戒警報の鳴らないのに、政則は飛行機が近くに飛んできたので怖いと飛びついて来た。思わず抱きしめた所に爆風で梁が落ち政則の頭と顔がやられた。わしは飛び散るガラスの破片でやられた。
(義兄と政則とも血だらけでした。義兄はガラスの破片が一〇〇ヶ所から突き刺さって居りました。)

姉(淵脇通子) 当時の状況を「忘れられぬ夢」として小文にしたため回顧しておりましたので抜粋転記します。

当日は朝からカンカン照りの暑い日でした、父は西観音町三か所の町内会の一つの町内会長をしていました、この三か所の合同町内会は当日六日は、兵役でない男の人(体が弱く兵役を刎ねられた人・老人で元気な人)、婦人で子供に手の掛からない人、この様な人達ばかりで義勇隊を組織、水主町(元水産市場?)付近の疎開作業に行きました。この日までは連日暑い日が続いて居りましたので義勇隊の人達に氷をトラック一台分自費で購入し、少しでも体を冷やして貰おうと氷を運ぶトラックの来るのを家の前道路で待っておりました。八時一四分頃飛行機が私の家の屋根擦れ擦れに大きな凄い音がして飛び去ってゆきました。丁度警戒警報が解除になった許りでシミーズに着替え胸のホックを掛けようとした時です。ドカァンと地響きがし屋根の瓦等が降ってきました。身動が出来ず少しの時間をして何とか出る事が出来ましたが、台所にいた筈が六畳の間を隔て次の縁側から足を出すことが出来ました。約八メートルも飛ばされて居たのです。少しも飛ばされた感じはありません。裏の廊下側にいたはずの四人の姿が見えないので門の方を見ると主人が政則を抱いて二人とも血まみれで立っていました。下の子治朗・安則が居ないので大声で呼ぶと床下より泣き叫ぶ声が聞こえました。畳はきちんと納まっているのでやっと一枚を取り上げると二人とも幸い怪我もなく元気で居りました。これは最初爆風で畳を上に持ち上げ、爆風が去ると元の所に落ちた現象が幸いし床下に飛ばされ潜り込んだのです。無傷でした、この時ばかりは神様の助と非常に有難く思い感謝しました。

門の外に出ると母は道路上で熱い熱いと言いながら、背中でグルグルと回って居りました。本当に熱く痛かったのでしょう。ようやく助け起こしました。倒壊している家からやっと布団だけをもちだし寝かせましたのが母への精一杯して上げられた事でした。火傷・怪我をしたこの四人に何も手当をする事が出来ません。

丁度梶川さんと言われる警察官が来られたので「私の家に直撃弾を落とされた。電話を掛けられないから、掛かり付けのお医者さんに電話を掛けてすぐ来て頂く様頼んで下さい」と頼みましたら「奥さんちょっと後ろを見て下さい」私を後ろに向かせました。ひょいと向うを見ると家は一軒も無いぐらい倒壊し、直線にして約四キロメートル先の広島駅が見渡せたのです。如何に広島を一瞬にして倒壊させた原爆のエネルギーの凄まじさ、その地で生活していた二十数万人の非戦闘員(老若男女)の生命を惨劇に至らしめた人道を無視したこの行為は、道義上からも地球が続く限り永遠に許されるものではありません。

とにかく主人と母と子供達を道一つ離れた交番前の畠に運び、持ち出したシーツと茣蓙(ござ)を敷き休ませました。父は包帯の代わりにボロ布で火傷の上を巻き、流れ帰って来る町内義勇隊の人の見極め、残って居た人の安否を確かめる事で陽の落ちるまで走り廻って居りました。我が家は当初は倒壊でしたが段々と火が燃え移って来ました。如何ともなすすべ無くただ茫然と眺めるのみ消火する事が出来ません。家財も持出し出来ず目の前で焼失してしまいました。残念でなりません想い出多くを残して燃え尽きる我が家の姿に思わず手を合わしました。

夕方遅くおにぎりの配給が有り息をつきました。有難く頂いた事を覚えて居ります。

甥(淵脇治朗) 父と兄弟三人南に面したガラス戸の廊下で遊んでいたら飛行機が二機飛んできて一機が急降下するのが見え、大きな音がした。気が付いたら弟安則(一歳)共に廊下に居て母に助けられた。

甥(淵脇安則) 当時一歳なので当時の状況は記憶に残っていない。

以上が被爆したした時の家族其々の様子でした。

夜遅くなり空腹になりましたので私は近所の人二人と放置されている二輪のリヤカーを引き、約一キロ先の十二間道路より東へ観船橋(みふねはし)通りに缶詰工場が有るのを思い出し、もし焼け残っていれば缶詰を頂こうと行きました。道中は焼け跡と倒壊による瓦礫を除けながら工場の前に行きましたが炎上後の残り火が熱く、九L位の缶詰缶の山が溶鉱炉の火の如く塊になり、次々と破壊しとても近寄れず空しく引き返しました思い出が有ります。

明くる七日朝、時間は覚えていませんが警察の方の手配を頂き無蓋車のトラックが迎えに来ました。私は父・母・義兄・おい政則をつれて看護役として同乗、宇品の凱旋刊館に運ばれました。一階の大広間には多くの怪我・火傷の人で一杯ワンフロアー上に並んで寝かされたいました。数百人の人です。

トラックで凱旋館に行った道筋は以下の通りです。観音の焼け跡より―観音橋―住吉橋―明治橋―鷹の橋(町名)―電車道を千田町―御幸橋―広陵中学前―宇品凱旋館です。この道中の焦土と倒壊と被災者の姿は今日までの膨大な原爆資料として残され発表されて居ますので書き記すまでもありませんが、残っている御幸橋の無残な姿の写真のその情景をトラックの上より眺めて通りました。 

凱旋館に入り間もなくに、B29一機が飛来空襲警報が鳴り始めました。この時の恐怖は今迄の人生で全身が氷付くような忘れる事の出来ない強烈な恐怖心を憶えました。もう助からない!恐ろしさに足も竦みました。何としても逃げねばならない。父はこの朝より歩けなくなって居りましたので背負い玄関前の防空壕に這うようにして向かいました。恐怖で這うことが精一杯壕に入る事が出来ず前の庭に臥しました。又あの爆弾を落とされる!死ぬ!今度は絶対助からない当時生存していた人達は同じ様に恐怖を抱いた事と思います。後日聞いた話では原爆投下後の偵察広島の惨状を写真に撮る為のB29の飛来だったそうです。

午後凱旋館より小型搬送船(はしけ船)に乗り似島検疫所に移されました。似島桟橋より玄関広場を通り検疫所へ、舎屋は何棟も有りましたが通る玄関前広場の庭に高く積まれた焦げた濃黒い色をした死体の山、吐き気を憶えるほどの匂い、今も眼前に死体の山が浮かんでまいります。その死体は一日の間に段々とうず高くなっていきました。今も眼前に死体の山が浮かんでまいります。その死体は一日の間に段々とうず高くなっていきました。如何に多くの人が今も此の似島でも亡くなって逝ったか相当数の無縁仏が地下に居られると思います。似島検疫所では仮治療所と聞きました。医師・看護兵も少なく火傷の薬はゴマ油(食用油?)のみ、竹を一〇センチメートル位に切った筒に水を入れその上に油を入れた薬?です。水と油は混ざりません。それも配給です。当然介護人が居るのが早く取り上の油を塗ってしまいます。火傷の酷い人の中に熱にうかされ幻覚症状が激しくなり、部屋中繰り事を言いながら壁・ガラス戸を叩き正に狂乱に、如何する事も慰めも出来ず唯茫然と眺めるばかり、次第に静かになり、死の世界に向かって逝かれます。哀れでした。

火傷の父母にゴマ油を付ける度に痛がりましたが他に手当てする薬が無いのです。義兄は身体に突きささった相当数のガラスの破片を看護兵に麻酔なしに一部を取って貰いました。政則の治療は傷口をオキシフルで拭くだけで治療薬も無く手の施し様もない状態で、食も進まず可哀想な姿でした。唯じっと見てやるだけで痛いか痛いかと聞くばかりです。義兄は戦中軍用船の船長として二度も撃沈され助かり次の船の決まる間の休暇として家に帰って居た所に不幸にも原爆に遭ったのです。鍛えた体力か気力でしょうか。充分の身体で無いのに残した家族の様子を見に広島に帰ってこようと父母・政則の治療を医師・看護兵の方にお願いし、私と一〇日にはしけ船に乗り宇品より帰りました。当然未だ電車はありません。歩き―宇品―千田町―御幸橋と往った道を帰りました。

帰途千田町の日本赤十字社玄関前に「広島に新型爆弾投下される、被害甚大の様子、人道を無視する残虐な爆弾」はっきりとこの様な意味合いの紙が貼ってありました。今日の言ふ所の壁新聞でしょうか。未だ原子爆弾が公表されて居なかったのです。

帰宅した家は、焼失した家の隣広島二中のグランドの中、東南隅に倒壊された家の残材を頂き仮小屋を造り住んで居りました。助かった町内の人の応援で建った様です。

姉は父の町内会長代理として災害後の町内の人の世話を全て引き受けなければならなかったのです。町内の様子の分かっている人が残って居ない為、機能していない市役所の出張所代りとして無事で居られた警察の方と相談しながら、残った方々の配給の世話・被災証明・焼失証明書を出して居ました。後には終戦で軍隊より次々と帰って来る人などに家族の方の行方と世話・死亡した方の証明迄出して居りました。被害を受けた我が家族の事を顧みることなく町内の為に多くの人を原爆手帳の交付を出来る基本資料迄も、わが身を顧みる暇も無く世話をして居りました。この姉の献身にどれだけの人が喜ばれたでしょうか。この忙殺に可愛いわが子政則の、原爆の日より四十二日間生きて居りましたが、九月一六日の僅か死の一時間前にしか見てやれなかったのです。無慈悲な自分を死ぬまで責め悔い、平成五年の七十三歳に死ぬまで鬼のような母であったと悲しんで居りました。毎日仏壇の位牌に参り、毎年命日には堺市に住んで居りましたが広島方向に手を合わし涙を流しながら拝んで居たそうです。

その姉が仏になりました後今日考えるとその時その状態をまだまだ多く聞いとけばよかったと残念に思います。

仮小屋のある二中の広いグランドの中は、死者の遺体の火葬場として(横九〇センチメートル×縦二メートル深さ五〇センチメートル)位の穴を掘りその中に焼失家屋の残材を一~二メートル位高さの木組に積み重ね上に遺体を乗せ荼毘にふしていたのです。突然に出来た数十もの火葬場です。次から次へと運び込まれる遺体に、煙は濛々と立ち昇り昼夜切れ間はありません。何時頃迄続いたのか覚えてはおりませんが、甥政則が九月十六日に死去、翌十七日に荼毘に付せましたので四十三日間の後も此のグランドで火葬がまだあり、相当数の人が荼毘(だび)にふされたと思います。毎日毎夜この火葬の煙の下で我が家族は数カ月も生活をしていました。人によれば、私はこの煙に助けられ長生きをしているのではと言われた事があります。人の焼却される煙は人体に良いそうです?現在の観音小学校グランドの地下には未だ多くの遺骨が眠っているのではないでしょうか。

火傷の薬としてゴマ油しかない時です。人伝に人骨を砕き水に溶かし火傷に付ければ良いと聞きグランドの中の俵に入れてある人骨を夜暗い中に俵を開け少し頂きました。人骨は俵に入れられ何十俵もうず高く積んでありました。父母に此の水溶液を付けると非常に痛がりました。燐があるのですから当然です。一回でやめました。薬代わりに藁をも掴む気持ちで一杯でしたので申し訳ない事をしたと後悔し頂いた何方かの遺骨に手を合わせたのです。

十四日に連絡が有りました、似島で治療していた父母と政則が宮島寄りの地御前小学校講堂に急造した診療所に移したと連絡が有ったのです。聞く処によると戦中より広島の外科医院院長島先生は外科の泰斗として戦前より有名な方でしたが被災に遭わず無事に居られたのでしょう。広島市の中心部(爆心地より直線距離僅二四〇メートル)袋町小学校で診療をして居られると聞き、早速に是非政則を診察して頂こうと思い立ち、私は地御前小学校に迎えに行きました。父母・政則と添え寝し翌十五日朝、今日は何か大事な放送が有る様なので昼より帰りなさいと聞き待って居ました。丁度十二時頃でしたか小学校校庭にラジオが向けられ流れてきた音声は、非常に聞き取れなくて何を話されているか分かりませんでした。医師に聞くと天皇陛下が戦争を止めると言われたとのこと子供心に何で!この様に酷くやられているのに、何故、周りの人達も残念と落涙にむせんで居りました。当時の世相は大東亜戦争(太平洋戦争は敗戦後の呼称名に変更)必勝あるのみ、戦争反対とか平和が来るのを呼ぶ人は、私の知る限りでは全く居りませんでした。

私達は日本の勝ちを信じて居ました。何で戦争を止めなければならないのか不思議に思ったのです。その日まで勇ましく勝つまでは食べる物の少ない中、歯を食いしばり防火訓練で水桶運び竹やりを持ち勝利の日まで頑張って居りました。十四歳の少年の心迄この様に指導教育されていたのです。

戦後の社会の急変は、如何に国として為すべき教育の重大さを痛感するばかりです。敗戦後は民主・自由を与えられたと言え、百家争鳴(ひゃっかそうめい)人の心は真反対でも平気になれるのでしょうか。疑問に思う人が居ます。軍国主義の魂であり私達を酷く殴打し勝利を信じさせ指導したクラス主任が、恰も自分は戦前より平和主義者であったと語り、敗戦後は教員組合の先頭に立ち、全国高教組の委員長にもなり活動して居りました。戦中には平和と叫んだ人を私の知る限りでは隠れていた人は有ったかも知れませんが、一人も聞きません。戦後自分は戦中平和主義者であったと唱え、戦争反対と雷同した人の多くの厚顔な平和主義者は、語らずとも過去を振り返り人として恥じるべきかと思います。
近代日本画檀の礎を築かれた横山大観巨匠も一生懸命画を描き、売却された資金で軍用機を国に寄付されたそうです。子供心に私は戦争一色、勝利を肌で深く感じて居りました。

八月十五日終戦の日戦争にも負け、この日はこの地御前より全ての決して忘れられない人生の悲しい思い出の一日でした。

やせ細った政則を背中に負い廿日市―楽々園―五日市と徒歩で帰りました、途中であの苦しく難渋して居ります政則が、か細い声で「お兄ちゃんしんどいでしょう。僕大丈夫歩いて帰るよ。下して頂戴」この苦しい中をしんどいだろうと思いやる優しい可愛い心の子「いいよ。お兄ちゃんは大丈夫よ。心配せずに背中に居って」心の中で泣きました。思えば助からないだろう政則を、神様助けてやって下さいと祈りました!いつもこの政則のことを思うと、六十五年たった今でも今日の出来事として涙が出て参ります。

己斐―現在の原爆ドーム前より(当時は産業奨励館)袋町小学校(爆心地から数百mの地点)に辿り着きました。広い講堂に入ると診療している負傷者で一杯です。島先生もこの人達の回診を数名の応援の医師達と診察に忙しく廻って居られました。ようやく政則を診察して頂きましたが、現在の医療施設と薬では如何にもなりません。日にちが薬と思いお世話はしますが看取って上げて下さい、許して下さいと手を合わされました。それから死亡するまで三十二日間この袋町小学校で介抱して頂きました。私は父母の事もありますので広島市役所前~観音橋~南観音町の診療施設を往復して居りました。

父母も地御前小学校の診療施設では遠方で介抱できず近くの診療施設として南観音町にある第二広島国民学校(現在の南観音小学校)に出来たので市より移して頂きました。我がバラックより約一キロメートルの所です。学校も原爆の被害で崩壊前の随分と壊れた校舎です。屋根も雨漏り激しく二階の裁縫室だったと思いますが広い部屋の中に教室の板戸で屋根を造り病床としたのです。しかし介抱も薬がないので思うように治療が出来ません。唯日々が薬です。母は火傷の傷は段々と酷くなり表面が膿を持ち蛆虫が取り着いて来ました。痛がります。箸で取っては捨てますが何処から湧くのか母は段々と弱って参りました。

医師の診断通り胸の黒いボタンが致命傷になり内臓が膨れ、丁度妊娠出産程の大きな腹になり苦しみ、尿も出にくくなり指示により父が導尿用のカテーテルを使い苦しむ母の尿を取って居りました。

この暗い気持ち中に、この爆弾に遭った人で皮膚に黒い斑点が出来だすともう助からないと聞いたのです。早速に母の腕を見ました斑点が多くあるのです。この時の深い悲しみは何と表現したらよいのでしょう。あの朝手を振って「元気に行ってお出でよ」「行ってきます」とその時の母の元気な姿が六五年を経た私の今日でも目の前に浮かんできます。忘れられません。出来るだけこの悲しむ姿を見せない様にしたのですが、食も進まず何か寂しい姿に見えたのでしょう。「どうしたの元気を出しなさい。お母さんも頑張って必ず良くなるよ」と言った言葉が胸の底に、影に行っては泣き臥しました。「お母さん生きて」生涯の最も悲しいこれ程の寂しさはありませんでした。助けて下さい。神仏に祈りました。母の死に直面した時の気持ちの覚悟が出来て居りましたので比べれば、斑点を見た時の悲しみは悲愴としか言えませんでした。

九月十三日午前一時五十一歳で母は帰らぬ人になりました。

介抱出来ずに別れた多くの人に思いをはせれば、私は三十八日間母を介抱出来た事を幸せに思います。翌十四日に仮小屋の横グランドで焼け跡の残り木を積み上げ荼毘(だび)に付しました。母の遺骨は黒くなって居りました。平常の遺骨は白い筈です。如何に原爆の異常さが骨まで現れる恐ろしさ 原爆を絶対許さない。

納骨する以外の遺骨は二中ポプラの木の下に仮墓として埋葬させて頂きました。

甥政則も袋町小学校で島先生に診察して頂くも如何ともなし難く、義兄も可愛い我が子の介抱に付き添って居りましたが、頭皮が腐り始め、頭を持ち上げると頭皮と頭蓋骨が剥がれるようになりました。痛いだろう、可哀想、もう永くないと先生に言われ、姉に連絡し急いで参りましたが、九月十六日に五歳で短い人生を終えました。姉の回想にも記しましたが介抱して遺れなかった無慈悲な自分を、鬼のような母であったと悔やみ悲しみ七十三歳で生涯を終えました。

政則はやはり我が家の庭先である二中のお婆さんと同じ焼き場の穴跡で荼毘に付しました。

合掌

この苦難の中を、どの様な生活をして来たのか思い出すことが出来ません。六五年前の事で姉も亡くなり聞いておけば良かったと悔やみます。今日まで無事に生を受けている事を考える時、社会の人の応援援助が有ったからと深く感謝しなければなりません。

この闇の中に明ありと思ったことが多く有ります。当然今日生有るのは社会の人々の恩恵ですが、当然其の中で朧げ(おぼろげ)ながら忘れられない思い出が有ります。第二広島国民学校での事です。私より一歳か二歳上だったと思いますが三次高女の生徒十数人が私達を励まし看護・炊事・洗濯を応援して頂いた事です。明るく笑顔で、どれ程に私達の心の苦しみを和らげ乗り越えられた事でしょう。今彼女達は如何して居られるでしょうか。原爆間もなくの入市で原爆症に罹られた人も居られるのでは無いかと思います。何か一縷の生きる望みを頂きました。本日も感謝の気持ちで一杯です。忘れられません。

本当に悪夢の生き地獄、人生最大の苦難を経て今日迄来ました。この姿思いのほどを充分に表現出来ず、物足りなさに残念に想い、語り不足に終わりましたが、この恐ろしい様子を少しでも感じ、孫子の代まで伝えて呉れよと心より念じて回想とします。

平成二二年一二月六日
梅 田  實

 

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