横川町にお住いの植松基さんから被爆体験をお聞きしました。植松さんは友の会の会員でもあり、八王子共立診療所には定期的に通っておられ、民医連や友の会が行っている平和のための活動には共感すると語っています。
被爆国の生き証人として
――被爆されたのは何歳の時だったのですか。
一八歳の時です。私は旧広島高専(今の広島大学)の一年生で動員学徒でした。
――おからだの方はいかがですか。
発熱、血尿、倦怠感、鼻血、白血球異常など原爆による症状に何度も見舞われてきました。私はせっかくここまで生かされたからにはなくなられた犠牲者のためにも被爆国の大切な証人として一日も長く生きていこうと考えています。
――爆心地からどのくらいの所で被爆されたのですか。
一・七キロメートルの所です
――その日は
出勤の準備をしていました。玄関先で一度巻き終えたゲートルがきつすぎたため、弛めて巻き直しました。時間にして十数秒です。さあ、出発と立ち上がる瞬間眼底の膜が焼ただれるほどの強烈な青白い閃光に続いて、アッという間もなく地響を立てての轟音。
「直撃の爆弾だ」と思った瞬間までしか記憶になく失神したようです。時間にして何分ぐらい経過したのか、父の呼ぶ声に気づいて辺りを見ると家は倒れかかり、わずかな空間から外に出ることができたのです。
地獄の光景
――外で見たのは。
玄関先の道路はこの世の人とは思えない、男女の区別さえ判別できないような人々が泣きわめき、助けて!助けてと叫びながら、福島川の方へなだれるように移動して行く。よく見ると髪の毛もなく、目玉もとび出たような人、衣服は焼けただれて裸同然。頭皮も顔面の皮膚もたれさがり、内臓の飛び出たまま全身血まみれの人、人。地獄絵図の光景に私は放心状態のまま立ち続けていたように思います。
歴史から学んで欲しい
――今一番に言いたいことは。
戦争によって多くの人が犠牲を強要されました。とりわけ広島・長崎への原爆投下は無差別の大量虐殺です。国際法を無視した残忍非道な行為は忘れてはならないのです。
私は特に若い人に日本の歩んだ歴史をもう一度学んでほしい。戦争に反対するということは当時は命懸けでした。
今は平和を願う行為は堂々とできるのです。かつての軍国日本へ逆行するような風潮を軽視してはいけません。核兵器や核実験も許してはいけない。
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