私は昭和二十年二月十日陸軍兵器学校広島分教所生徒隊第二十一中隊に編入(陸軍特別幹部候補生)広島市江波町広島商業学校跡
原爆犠牲者として祀っていただくお願ひ
入隊して一ヶ月軍事訓練の後は三次の山中や宮島の裏海岸で工作機械、内燃機関の基礎知識を学び八月初旬に本校に帰り六日午前広島駅出発、大阪の工場で実修を受けることに決定。然しその夜何度か空襲があり午後の出発に変更になり、私は父へ便りを出そうと準備中ピカッと目の前の電線が黄色の煙をあげ炎上。誰かが爆弾だ伏せろと叫んだので伏せた直後、爆風が襲来、窓も天井も吹っ飛んで部屋の中は大混乱。やっと靴を探し防空壕に走ってみますと、目前に巨大な雲の渦が土の底から湧き上るように次から次と大きくなり唯茫然と見上げるばかり。その間十数分?程かと思いますが、背中に火傷を負った馬が数頭飛び込んで来たのに驚きそれぞれ指示(命令)に従い動き始めました。何分避難してくる人が多くその殆んどが重い火傷を負った人ばかり。取り敢えず重傷者は我々の兵舎を当てることになって我々はその夜から野営(広商野球部外野スタンド)することになりました。野営の一日目は、誰も消す人のない侭に拡がる火災が目に残っていますが当日の夜は皆そぞれ疲れて会話もなかったようで記憶にありません。
第二日目は三人で近くにある糧秣集積場の哨戒を命ぜられ哨戒中午前十時頃だったと思いますが、首から風呂敷を下げてフラフラと近づく女性と出会い突然この子をよろしくお願いしますと首から包を外し渡されました。母親は焦げた上衣と皮膚が汗と脂(多くの人がみんな同じ姿)にまみれ歩くのがやっと、近くの救護所(学校)に送りました。預かった子は腹のあたりは動かせば「グズグズ」と既に腐敗が進行しており三人で相談のうえ、叺(かます)に入れて畑の隅に埋め目立つようにと大きい石を三個寄せ三人で合掌、当日の報告は異状ナシ、赤子を埋めたことは報告せぬ侭互いに黙して語らず七十年を迎えます。
夜営の続く夜はその日の出来事や街から伝ってくる噂やデマが兵舎の中では話せないことも互いに語り合ったことも今では懐かしい思い出ですが、我々三人が預かった子のことは話したことはありません。唯一度だけ一人があの母親は生きていると思って預けたのではないかなあと一人言のように呟いてそれっきり黙して語らず、七十年を迎えます。三人のうち一人とは戦後交友を続けていましたが亡くなり私も八十六才を過ぎあのときもっとよき扱いはできなかったものか、あまりにも粗雑な扱いであったと悔恨の念忘れ難い思いです。
母親の名前赤子の性別等全く不明ですが原爆犠牲者の一人であることに間違いありません。何卒犠牲者の一員に加えていただくようお願ひ申し上げます。
平成二十七年五月五日
後根雅人
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