昭和二十年八月六日。八時十五分。一発の原子爆弾によって、広島市は一瞬にして焦土と化し、数十万人の犠牲者が出た。
毎年巡り来る八月六日。私にとって、終生忘れることが出来ない鎮魂の日である。
私は当時暁第一六七一〇部隊に所属し、前夜からの空襲警報に対処して徹夜で警戒に当たっていた。明け方解除されたので、二階の内務班内で演習日程の打ち合わせをしていると、耳馴れたB29の微かな爆音が聞こえた。警報は出ていない。私は窓から体をのり出して、空を見渡したが、機影は見当たらない。
間もなくして、百雷が同時に落ちたような物凄い閃光が走り、激しい轟音と爆風で兵舎は崩壊し、私は吹きとばされ、崩壊した兵舎の下敷きになって意識を失った。
どれ程の時間が経ったか、漸く意識を取り戻した。真っ暗な瓦礫の中で「ここで死んでたまるか!」と敵愾心がわき起こり、必死にもがいて外に出た。表門から、子供達が泣き叫んで走って来るのが見えた。皆皮膚は焼けて、血を流している者もいる。「兵隊さん助けて!」と、悲痛な叫び声が大きく聞こえる。
私は、自分の体を初めて見て驚いた。全身焼け爛れ、皮膚が破れてぶら下がり、見る影もなかった。裏門を抜けて、やっと比治山の救護所に辿りつく。居合せた衛生兵に「チンク油」を塗ってもらう。間もなく、約六キロ東の学校に避難することになった。真夏の太陽の下、焼けつくような道を、素足で、しかも裸での歩行。学校に着くと同時に力つきて倒れてしまい、全く動けない。医師も、薬も、水さえもない。暗い教室に横たわり、苦痛に耐え抜く気力も失せて、悪夢のような夜は更けていった。
それから二週間後、宇品に陸軍病院の分院が開設され、生き延びた者達が収容された。
病院で初めて医師の診断を受け、治療が始まった。痛みに耐え抜いた二週間。九死に一生を得て、十一月三日、故郷長崎に帰った。
一年後療養を続けながらも社会復帰が出来たのは、全くの奇跡だった。
八月六日。被爆犠牲者の冥福を祈り世界平和を希求し続けて、今年五十七年を迎える。これからも、八月六日と戦争の悲惨さを語り伝えたいと思う。
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