私は当時国家総動員法に基き現職のまま徴用せられ備後十日市駅(現在の三次駅)に勤務しておりました。昭和二〇年八月六日は、非番日で勤務交代後所用のため午後二時頃まで市内の伯母のところに居り自宅に帰る予定で駅に行ったところ居合せた同僚から広島の空襲で怪我をした人がこれから列車で帰ってくる。そうとうひどくやられている人もいる。とだいたいのことを教えてくれましたのですぐ事務室に入りますと当務駅長より被災者の列車輸送が始まるから救護作業に当るよう指示されました。
午後三時頃広島方面から被災者を乗せた列車が到着し直ちに救護作業に従事しました。救護作業はなかなかはかどらず列車内、ホーム、待合室、駅前仮収容所等で作業に当りました。最初の被爆者を乗せた列車が到着したときは全く予想もしていなかったものすごい情景に目を覆う有様でした。車内の座席にすわったまま動けない人を背負ってホームに出て担架に乗せたりヤケドがひどく体の皮膚がはげて歩くこともおぼつかない人もおられましたがこんな人は肩をかして駅前の仮収容所へ連れて行きました。車内にはすでに死んだかのように体が自由にならずそれらをホームへ出すのが大変な作業でした。
又、ボロボロになった衣服の間からヤケドで皮膚の色が変ったのか泥でよごれたものか判別もつかなくなっている方も相当おられました。このような被災者はヤケドと怪我でとても痛そうでしたが無理に抱きかかえたり背負ったりしてホームに連れ出しました。私は主に車内からホームに被災者を連れ出す役目に回っていました。この救護活動は同僚と一緒に八月九日までこの作業に当り続けました。
列車が到着する度びに救護作業は続きましたがその中で特に記憶に残っているのは次のようなことがあります。ヤケドをした体にボロボロに破れたシャツがくっついて取れずよれよれにぶら下ったままホームまで降りてこられ柱につかまってうずくまってしまい動かなくなりました。死んだかのように見えたので近づいて見ると小さな声で「このシャツをはいでくれ。頼みます。頼みます。」と再三言われたので汁のにじんだ腕をつまみ上げてはぎ取りましたが腕の裏側にはウジが数匹となく這っておりました。また傷口は赤黒く水ぶくれとなり、ウジが動いておりました。再び体に手をかけて、ホームの柱に寝せかけましたが体がぐずついて困っておりますと他の被災者の救護に当っていた同駅の学徒動員の人が担架を持ってきて介護に当り同僚に手伝ってもらって駅前の仮収容所の方に運んで行きました。当日は信号掛として勤務しながら救護に当っていましたので列車の発車時刻が近づいていてこの場所をはなれて信号機の取り扱いをしなければならない状態にあったので困っていたところでしたのでほんとうに助かりました。このことは今でも悲惨な思い出と共に深く印象に残っております。
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