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平和が一番のぜいたく 
大前 民生(おおまえ たみお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島市小網町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 崇徳中学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●当時の生活
私は当時十五歳で、八人きょうだいの末っ子でした。実家は佐伯郡上水内村(現在の広島市佐伯区)にあり、当時、両親と姉一人の三人が住んでいました。崇徳中学校三年生だった私は実家を離れ、楠木町の学校内にあった寄宿舎で暮らしていました。

戦争が激しくなる中で、私は中学二年生の二学期から、動員学徒として安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)の三菱重工業第二十製作所に行っていました。下祇園駅から製作所まで学徒動員の歌を歌いながら出勤し、旋盤工見習として懸命に働く毎日でした。

●被爆の状況
被爆前日まで動員先に通っていましたが、八月六日はたまたま崇徳中学校が割当てで、爆心地に近い小網町に建物疎開に行くことを命じられていました。同じ工場に動員されていた高等師範学校附属中学校の親戚は、前日の五日が建物疎開作業の当番日で、六日は動員先に行っていたため被爆しませんでした。

八月六日、私は朝七時頃に寄宿舎を出発し、八時前に現地に到着しました。そして同級生百二十人余りとともに、家屋の大きな柱にロープを掛けて引っ張り、家を壊す作業を開始しました。そのとき、サイレンが鳴り、雲ひとつない澄み切った上空にB29が飛んでいるのを見ました。はっきりと飛行機が見えたのは覚えていますが、その瞬間、青白いものすごい閃光がピカッと光り、それからは何も分かりません。気がついたときには何かの下敷きになっており、一トン爆弾が至近距離に落ちたのだと勝手に想像しました。

周りを見ると、私の足の先には友達の頭、手の先には友達の足があるという状況でした。どうやら家屋の下敷きになっているようですが、幸いにも手や足を動かすことができ、外傷もあまりありませんでした。そして、かすかな光を頼りに自分の体を押さえている物を懸命にかき分けて、なんとか外に出ることができました。

外は一面何もなくなっており、何が起きたのか把握できませんでした。引率の先生が、「下敷きになっている友達を助けてやれ」と言うので、板などを取り除きました。ぐったりと倒れ、かすかな息をしている友達もいましたが、何もしてあげることができません。その頃、舟入方面から火がチロチロと出始め、やがて燃え上がる炎が見えました。先生に「元気で歩ける者は山手の方に避難するように」と言われ、私は友達の小林君と一緒に道なき道を必死で逃げ、天満川の土手筋にたどり着きました。川に目をやると、川舟に乗っている人や、物につかまって浮かんでいる人など多くの人が流されていました。また川の両岸の土手筋では、女性が多かったと思いますが、おびただしい数の人が山の方に逃げており、まるで地獄絵図のような光景でした。

天満橋が渡れる状態だったので、とにかく己斐まで出て、駅から列車に乗って逃げることにしました。逃げる道中、己斐橋では兵隊に「早く渡れ、早く渡らんと火災で通れなくなる」と言われて、二人で必死に走って渡りました。己斐駅へ向かう道沿いでは潰れた家の下敷きになり、助けを求めている人々を何人も見ましたが、火が迫ってきており、どうすることもできませんでした。

●五日市の親戚の家へ
己斐駅に着くと、ちょうど列車がホームに止まっていました。ホームを歩いていると、友人の大野君が列車の中から出てきて、「どうしたん、早いことここまで来たんじゃのう」と声を掛けてきました。その顔を見て私たちは驚きました。自分では気づいていないようでしたが、彼の顔は、水膨れで腫れあがっていました。しばらくの間、三人で立ち話をした後、その列車は当分動かないということなので、私は親戚の家がある佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)へ歩いていくことにしました。小林君は学校や寄宿舎の様子を確かめるために、茶臼山を通り横川方面にいき、大野君はしばらく列車の様子を見るとのことで、お互いに「がんばれよ」と言い、別れることにしました。その後再開した学校で二人と会うことはなく、これが事実上の最後の別れになってしまいました。

私は、線路沿いを歩いて五日市に向かいましたが、高須辺りで雨が降り始めました。後に分かりましたが、それが黒い雨でした。時間としては五分か十分程度だったと記憶しています。草津辺りまでくると、真夏の暑さと体力の消耗で、喉がカラカラになりました。途中、荒手の踏切で踏切番をするおばあさんがいたので、「喉が渇いた。水をくれ」と言うと、「これを飲みなさい」と言って、手おけに入れた水を出してくれました。そのときの水のおいしかったことは今でも忘れません。元気を取り戻し再び歩き始め、井口辺りまで来たとき、広島の方へ向かってどんどん走っていく兵隊を見ました。この時点でも、まだ広島で何が起きたのか、どういう状況になっているのか、私には分かりませんでした。

そして、ようやく五日市の親戚の家へたどり着きました。おそらく、朝の十時頃だったと思います。親戚の家は爆風で家が揺れ、家中がごみだらけになり、皆で大掃除をしているところでした。家中が散らかり寝る所もなかったので、土蔵の中に布団を敷き、休ませてもらいました。

そして、翌日私のことを心配した父が上水内村から駆け付けてくれました。父は、外傷もなく、比較的元気だった私を見て安心した様子でした。吐き気や食欲不振はありましたが、二、三日休んで回復しました。そして、お盆が近づいたので、家に帰ろうということになり、八月十日頃父と一緒に歩いて上水内村に帰りました。

●被爆による後遺症
実家に帰った私は、夏休みということもあり、毎日近くの川へ泳ぎに行っていました。ある日、泳いだ後家に帰りタオルで頭を拭くと、髪の毛がたくさん抜けてタオルについており、なぜだろうと思いました。その後も髪の毛が抜け続け、九月初めには、頭がほとんどつるつるになり、不安なため楽々園で医者をしていたいとこに症状を診てもらいました。人づてで、輸血が効くと聞き、血液型が同じだったいとこから輸血をしてもらうことにしました。幸運にも、輸血の結果が良かったので、治療を続けるため、五日市の親戚の家から楽々園の病院に通うことにしました。道中の電車内では、原爆の話ばかりで、「髪の毛が抜け始めたら助からない」というような話も聞こえてきて、あまり良い気持ちはしませんでした。

また、比治山にあるABCC(原爆傷害調査委員会)へ二、三回行きました。「あそこへ行くと、とにかく帰れなくなる」とか「実験に被爆者を集めて何かしている」という話を事前に聞いていました。実際に行ってみて、詳細は定かではありませんが、被爆者を集めて原爆による健康への被害を調査するなど、様々なデータを取っていたのではないかと思います。

しばらくすると、幸いなことに髪の毛が生え始め、体調も回復したため実家に帰ることができました。そして、十月、猫屋町にあった光道国民学校の校舎を利用して、学校が再開されることになりました。光道館と呼ばれたこの校舎は、鉄筋コンクリートの三階建てで焼失を免れたのです。

私が仮校舎に登校したのは、十二月の初めでした。学校に行くと、一緒に建物疎開に行った生徒のほとんどが亡くなっており、「お前、よく来たな」と言われました。生き残った生徒同士が、被爆時の様子や後遺症などについて話をする中で、被爆の際、私は建物の陰で閃光が当たらない所にいたので、ケロイドができなかったのではないかと思いました。

その頃校舎のすぐそばでは、兵隊らしき人の遺体が建物の下敷きになって残されたままでした。光道国民学校には駐屯していた部隊もあり、兵隊もたくさんいたのでしょう。倒れた建物の下にはまだ多くの遺体が埋まっている状況で、私たちは授業を受けました。しかし、授業といっても机も無く、チョークを文具店で探し求め、壁や板切れを利用するという不自由な形で行われました。

●平和への思い
私は、「教育は大事なものであるが、同時に恐ろしいものでもある」ということを強く訴えたいです。私自身、太平洋戦争のさなか、「神風が吹く」とか「日本は戦争に負けることはない」という教育を受け、実際にそのように思っていました。また、特攻隊に出た若者は、国を守るために死ぬことをいとわないという心境に駆られていたと聞きます。しかし、実際に日本は戦争に負け、私の友人や多くの同級生が亡くなりました。特に被爆直後、火が迫ってくる中で友人を助けることができなかったときの無念さは、今も強く心の中に刻みこまれています。間違った教育が、多くの人の死と、生き残った人の悲しみをもたらしたのです。

こうした経験から、どういった理由であっても戦争は絶対に避けなければならないと考えています。戦争に勝っても負けても、人を殺しあう行為には変わりがないのです。そして、同時に平和のありがたさを痛感しています。この年齢まで生きながらえることができたのも、平和な世の中があってこそであり、本当に感謝しています。ごちそうを食べ、上等な服を着ることがぜいたくではなく、どんなに貧しくても平和であることが一番のぜいたくだと考えています。

●次世代への平和の伝承
私は長年、湯来町(現在の広島市佐伯区)で原爆被害者の会の会長をしています。毎年八月六日には原爆慰霊祭を行っており、四、五年前から小中学校の子どもたちも来てくれるようになりました。慰霊祭の後には、中学校の同級生の桜井君と一緒に、戦争の悲惨さや平和の尊さなどを子どもたちに語る活動もしています。実際に戦争を体験していない子どもたちに、私の思いを完全に伝えることは難しいですが、一人でも多くの子どもたちに「絶対に平和を守っていかなければならない」という気持ちになってもらいたいと思います。

また、学校の先生には、子どもに対して平和教育をするというだけでなく、平和の意義などもっと深い話を語ってもらいたいと考えています。そのため、先生にも私たちの被爆体験を話しています。

そして最後に、学校教育の場で勉強だけでなく、いかに人と争わないかということも学んでほしいと考えています。近年の日本では平和であることが当たり前のようになり、平和ボケをしている日本人が増えているように感じます。近所の駅でも、軽い気持ちで、歩いて帰るのが面倒だからと駐輪してある他人の自転車の鍵を壊して、乗って帰ろうとする人を見ますし、日常生活の中でも、自分勝手な行動をする人は多く見受けられます。こうしたことが、人と人との対立を生 み、将来的には戦争へと発展しうるということに留意する必要があると感じます。

これからの子どもたちには、戦争だけは絶対に起こさない、人と人が殺しあうことは絶対にいけないという気持ちを持って、平和な世の中を維持し続けるために何をすれば良いのか考えてほしいと思います。

 

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