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エナメルの靴を履いた日 
池田 子(いけだ れいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2024年 
被爆場所 広島市(楠木町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 大芝国民学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
●被爆前の生活
私の生まれは東京です。三人きょうだいの真ん中で、兄と妹がいます。私が小さいころ、父は東京の飛行機を作る会社に勤めていました。兄は学校に通っていましたが、妹はまだ赤ん坊で、母が面倒を見なければいけないので、手のかかる私はよく他所へ預けられていました。両親は私を教会の幼稚園に行かせようとしましたが、職員の黒い服が怖くて、大泣きして通うことができませんでした。そのため、一人だけ父の実家である広島の祖父母のもとに預けられました。その後何年かして父が病気になって仕事を辞め、一家で広島に帰ってきたので、家族と一緒に暮らすようになりました。

父の実家は三篠本町三丁目にあり、現在もある三滝荘という料亭の近くで、通りの酒屋から数えて4軒目の2階建ての家でした。可部線の線路が通っており、三滝荘のそばに駅があって、家の前を電車が走っていました。そのころは食べ物が十分になく、祖母は佐伯郡井口村の畑に、リヤカーに肥を積んで通っていました。家族で食べるためのサツマイモを植えていたように思います。次第に空襲警報が鳴るようになり、我が家も、家のすぐ横に大きな穴を掘って防空壕にしていました。警報が鳴って、防空壕に隠れることも多かったです。
 
●昭和20年8月6日
昭和20年8月、私は7歳で大芝国民学校2年生でした。学校の建物は軍隊が使っていて、2年生は学童疎開の対象ではなかったため、楠木町にあったお寺で授業を受けていました。4年生の兄は、三次に学童疎開していました。

6日の朝は、お寺に行こうと思ったら、警戒警報が鳴りました。早く防空壕に入らなければと話していましたが、しばらくすると解除になったので、私はお寺に向かいました。

その日はお寺から近くの川に遊びに行くことになっていました。私はうれしくて、水遊びをするというのに、黒いエナメルの靴を履いて行きました。エナメルの靴は、親に買ってもらったものだったと思います。遠足に行くような、よそ行きの気分でした。お寺に着くと、庭で近所の友達10人くらいと一緒に遊んでいました。友達と、ちょうど原爆ドームのある方を向いて話をしていた時です。突然、ピカッと光り、私は咄嗟に顔の前に左手をかざしました。爆心地からは、2キロの距離でした。

気が付くと、お寺が滅茶苦茶に壊れていて、私は倒れた柱の隙間にいました。爆風で吹き飛ばされて、気を失っていたようです。目が覚めた時、遊んでいた友達は誰もいませんでした。エナメルの靴も脱げてしまったのか、ありません。探しても見つからず、私は裸足で柱の隙間からはい出しました。辺りには猫一匹見当たりません。どこへ行ったらいいのか分からなくて、街の方へ向かって走りました。色々なものがぐちゃぐちゃに壊れている中を一生懸命走っても、あまりにも誰もいないので、これは普通じゃないと思い、私は街の方へ行くのやめて引き返し、家へ向かいました。

どこが道か分からないような状況でしたが、とにかく家に帰ろうと、通りの酒屋近くまでたどり着きました。するとそこから、家の方がぼうぼうと激しく燃えているのが見えました。ああ、家が焼けてしまっている、もう帰れない……そう思った私は、山へ逃げることにしました。三滝の山には父方の先祖の墓があり、祖母が「三滝さん」と呼んでいて、何度もお参りに連れて行ってもらったことがありました。7歳の私には他に知っている場所はなく、もう山へ行くしかありませんでした。

途中、牛を連れたおじいさんがいて、その後ろを付いて歩いて川土手に出ました。田んぼの間の狭い畦道で、おじいさんと牛がゆっくり歩くので追い越すことができず、早く行ってほしいと思ったのを覚えています。ようやく出た川は、今の太田川放水路ができる前で川幅が狭かったので、人一人が通れるくらいの細い橋を渡って山に登りました。お寺から山に着くまで、子どもの足ですから4時間くらいかかったように思います。

街には誰もいなかったのに、山には麓から人がいっぱいいました。そこにいた女性に「子(れいこ)ちゃん、生きてたの」と声をかけられました。私には誰だか分からない人でしたが、避難していた近所の人で、私が無事だったことを喜んでくれました。
 
●三滝の山で見た光景
三滝の山からは、川土手を逃げてくるたくさんの人々が見えました。何百人、何千人いたか知れません。その人たちはみんな、赤いきれいな服を着ていて、何か着物が垂れているようで私は不思議に思いました。すると近くにいたおばさんが、「あれは着物じゃないよ」と教えてくれました。その人たちは全身が焼け、皮膚が垂れさがって、赤い着物を着ているように見えたのです。その人たちの声が、ぼおん、ぼおんと山に響いていました。何千人もの人々の「水をくれー、水をくれー、痛いよう、痛いよう」という声が、重なって山に跳ね返って聞こえてきたのです。さぞ、痛かったことだろうと思います。それでもまだ死ねないのです。そんな人々が広島市内の方からぞろぞろと、途切れることなく歩いてきて、通り過ぎて行きました。

時刻ははっきりしませんが、雨が降り出しました。山で隠れる場所もないので、ずぶ濡れになりました。その時は雨の色は分かりませんでしたが、後になって、あれは黒い雨だったのだと知りました。
 
●家へ帰る
日が暮れるころ、近所の人が「家に帰ってみよう」と言われました。私の家はもう焼けていると思いましたが、連れて帰ってあげると言われて山を下りました。戻ってみると、家は焼けておらず無事でした。家が燃えていると思った時、実は火災が起きていたのは、我が家のさらに奥の、線路の向こう側にあった藁葺き屋根の家でした。通りから見ると、自宅が燃えているように見えたのです。

私が帰ってくると、母が「あんた生きとったんね、もう子(れいこ)は死んだかと思っていた、よう生きとった」と驚いて迎えてくれたのが忘れられません。家は畳に足の踏み場がないほどガラスが突き刺さり、とても中には入れない状態でした。私たちは当分の間、外の田んぼにゴザを敷いて寝なければなりませんでした。

私は被爆の瞬間、手と足、顔にやけどを負っていました。やけどはヒリヒリしてとても痛かったです。お医者さんに診てもらえる状況ではなく、家にあった置き薬でしょうか、真っ黒い薬を塗られて治療しました。左目の下が特にひどく、後で穴が開いて臭い膿が出ました。薬がよかったのか、やけどは次第に回復していきましたが、治るのには時間がかかりました。
 
●家族の被爆状況
原爆が投下された時、家には病気の父と、妹、祖母がいました。父の水津勝(すいづ まさる)は39歳で、その日は2階で寝ていましたが、爆風で外に飛ばされ、庭の池に落ちました。そこから逃げて、隣の奥さんと一緒に自宅近くの線路下にあったドブ川に、首まで浸かっていたそうです。

当時28歳の母・佳子(よしこ)は、実家の祖母と買い出しのためリヤカーを引いて、安佐郡伴村へ向かっていました。途中で街のほうがピカッと光ったので、何が起きたのか分からないまますぐに二人で引き返し、三篠本町の家に帰ってきました。

2歳の妹と祖母がどうしていたかはわかりませんが、二人とも無事でした。
 
●父の死
9月の中頃に、広島は枕崎台風に襲われました。川の水があふれて、私たちの家も2階のすぐ下まで水が来たことを覚えています。

10月に父が亡くなりました。被爆前から病気を患っていましたが、被爆したこと、避難してドブ川に浸かっていたことも、病気が悪化した原因ではないかと思います。そのころの広島では、お坊さんにお経を上げてもらって葬式をするということは、とてもできませんでした。みんな、自分のことだけで精一杯でした。遺体を焼く火葬場もなく、父の遺体は、母と祖父が布団で巻いて、山へ連れて行きました。そこで火を付けて帰ってきましたが、翌朝行ってみると全然燃えていなかったそうです。焼くことができなかったので、母たちは、その場に穴を掘って父の遺体を埋めました。

昭和20年は、本当につらい年でした。
 
●戦後の家族の生活
父が亡くなった後、母と私と妹は、家を出なければならなくなりました。兄は、5人兄弟だった父の一番下の弟に引き取られ、家族は別れ別れになりました。兄も当時は子どもで、大人が話す事情が分からなかったので、実の親に捨てられた気持ちだったそうです。兄は叔父に育てられ、学校にも行かせてもらい、のちに銀行に勤めて支店長にまでなりました。私たちと一緒に暮らしていたら、そこまでの教育は受けられなかったかもしれません。

それまで暮らした家を裸一貫で出た私たちは、母方の祖父母のところに身を寄せました。母の実家の石本(いしもと)家は原爆で焼け出され、祖父母はトタン屋根の掘っ立て小屋のようなものを建てていました。一年間くらいの間、私たち家族は親戚を転々とする放浪生活でした。その後祖父は、私たちのために安佐郡伴村に家を建ててくれました。石本(いしもと)家は村に先祖のお墓があり、縁のある場所でした。家ができるまでは伴村のお寺の離れを借りて住み、私は伴村で暮らすようになってからようやく、小学校4年生からまともに学校へ行けるようになりました。

戦後は、どれだけひもじい思いをしたかしれません。お腹が空いたら、家の裏の河原へ行って食べられる草を探しました。毛が生えたような草を噛むと、甘みが出て食べることができました。山へ入って赤い実を取って食べもしました。学校から帰ると、ビコと呼んでいた大きなカゴを背負って、山にコクマ(松葉)を拾いに行くのが私の仕事でした。枯れて落ちた松葉はよく燃えるので、カマドや風呂の焚き付けにするのです。水道もないので、川からバケツで水を汲んで、風呂の用意をしていました。今のように毎日風呂に入れるのは、贅沢なことだと思います。
 
●夫との出会い
私は伴中学校を卒業後、経理学校を受験して受かってはいたのですが、家が貧しかったこともあり、進学を断念しました。そのころ国泰寺中学校で事務員の募集があり、家計を助けるほどの給料ではありませんでしたが、働けば自分のことは自分でできると考えて、15歳で就職しました。その職場で、夫と出会いました。

国泰寺中学校は進学校で生徒数が多く、校内に二つある売店の売上げがとても多くて、銀行の人が毎日集金に来ていました。ある日、私が売店の金庫を持って戻ってくると、白いトレンチコートを着た人が立っていました。それが当時銀行員をしていた夫・池田長昭でした。とてもハンサムな人で、こんな素敵な人は見たことがありませんでした。お互い好きになり、5年ほどお付き合いをして、24歳で結婚しました。

夫は私と同い年で、戦時中は、現在NHK広島放送局があるあたりに家がありましたが、そこは危ないということで、江波の親戚のところへ引っ越していました。夫は舟入の方の国民学校に通っており、学校の中で被爆したそうです。腰を打って、はって家まで帰ったと話していました。被爆していると分かると結婚に差し障るから、隠しておかなければならないと言われる時代でしたが、私たちは原爆に遭っているもの同士でしたし、好きになったらそんなことは考えませんでした。
 
●友人たちのこと
伴村で暮らすようになってから、伴小学校、伴中学校と進学し、同級生の松本(まつもと)(旧姓上原(うえはら))勝子(かつこ)さん、橋本(はしもと)(旧姓大利(おおとし))多津子(たづこ)さんと友達になりました。

松本勝子(まつもと かつこ)さんは、被爆時も伴村に住んでおり、伴国民学校の2年生でした。8月6日の昼ごろ、真っ黒い雨が降り、午後から学校に行くため、傘を差して雨の中を出かけたそうです。伴村でも爆風の被害があり、自宅の2階の窓ガラスが落ちて、1階の天井は真ん中がV字に折れて下がってしまっていました。

橋本多津子(はしもと たづこ)さんは鷹匠(たかじょう)町に住んでい
ましたが、被爆時は伴村に疎開していました。多津子(たづこ)さんも午後から登校することになっていて、家のそばで遊んでいた時、ピカッと光り、大きなドカーンという音を聞きました。広島市の方の山が真っ赤になり、キノコ雲が上がったのを見ました。煤のようなものが飛んできて、落ちてきたものを見ると布切れや板切れでした。その後黒い雨が降ってきたそうです。私たちはいた場所は違いますが、三人とも黒い雨に遭いました。

勝(か)っちゃん、(れい)ちゃん、多津(たづ)ちゃんと呼び合って、子どものときは家を行き来して遊び、学校を卒業して、お互い家庭を持ち子育てが一段落したころから、またみんなで会うようになりました。多津子(たづこ)さんは令和4年に亡くなりましたが、今に至るまでずっと、三人の友情は続いています。
 
●平和への思い
これまでは、家族にもあまり原爆のことは話したことはありませんでした。今回自分の体験を話したいと思ったのは、勝子(かつこ)さん、多津子(たづこ)さんとの縁があったからです。多津子(たづこ)さんの四十九日のころ、多津子(たづこ)さんのご家族が原爆ドームや広島平和記念資料館に連れて行ってくれました。ずっと見たくないと思っていた場所で、当時の惨状を思い出せば、あんなものではありませんでしたが、行ってよかったです。今の若い人は戦争のことを知りませんが、孫やひ孫に伝えていきたいと思いました。

もう戦争は二度と起こさないでください。

私には高校2年生になるひ孫が二人いますが、もし戦争になって、あの子たちが戦争に行くようになったら、その前に死にたいです。戦争は起きてはいけないものです。

二度と、戦争はしてほしくありません。どうか、お願いします。 

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