太平洋戦争は昭和一六年一二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃によって開始されました。
当時私は国鉄に就職して一年八ケ月目でした。
〇日本はこの戦争でアジア太平洋地域の各所を順調に勢力を拡げて行ったが、昭和一七年ミッドウェー海戦で敗退し以後は制海権、制空権を失って次第に追い詰められて行き、昭和一九年七月のサイパン陥落によって、二〇年一月頃から日本本土への空襲が本格化し、全国の主要都市をくまなく爆撃するようになった。中でも三月一〇日の東京大空襲、一二日の名古屋一三、一四日の大阪一七日の神戸と続けて焼夷弾攻撃を受け多数の民家、工場が焼失された、その後八月六日の広島八月九日の長崎原爆投下と続いて攻撃されました。
〇私は八月六日(天候晴)の広島原爆投下の実態についてお話しをして見たいと思います。
私くしの勤務場所は広島駅構内の北側に位置した場所に建設されている国鉄広島車電区の事務室、作業所の建物です。職員は現場長以下五一名程度です。私くしは技術掛として当日、日勤で朝七時三〇分に出勤して戦時中なので両足に巻ゲートルを巻いて点呼を待っていました。朝礼点呼七時五〇分助役以下職員集合、呼名点呼、作業計画、指示伝達が終り作業員は各作業場に移動し作業準備にかゝっていました。私しは一人で事務室の横にある別棟二階建の一階にある職員研修会議室に戦闘帽をかぶり上服を取り手元に置いて椅子に腰を下して業務資料を見ていた。すると八時五分頃だったと思いますが空襲警報のサイレンが鳴動しました。私くしは別に行動を起さず椅子に座ったまゝ上司からの指示を待っていました。
〇するとしばらくして大きな地震のように建物が剛音を立て左右に動揺し、砂塵が舞い上り天井が落ち屋根瓦も多数落下し、たまらないので手元に置いていた上衣服を頭からかぶって机の下にもぐり込んで時間を待った。爆音をきいた時は建物周辺の路面に焼夷弾が黄色い炎と煙を立てゝ一面の海のように見えた。爆音が消えたので時計を見ると八時二〇分頃だった。私は窓から外に飛び出て東側にある陸軍演習場を見ると愛宕町方面から避難民が大勢流れ込んでいた。その姿は、
〇男女を問わず頭髪が茶色に焼け崩れ顔面は水ぶくれの様に大きく太り眼が見えない状態になり腕はやけどして大きくはれているので両手を上部に上げて避難していた。
〇男の黒い服女の黒いスーツは熱線で焼け崩れ垂れ下がっている。
〇ガラスの飛散で顔、手足を切って出血し真赤になって両手を上部にあげて助けて下さいと叫びながら避難する者も沢山いた。
〇又、三~五才位の子供さんの手を引いて避難するお母さんもいた。
〇乳のみ子を前に抱き避難する母もいた。
〇同じように熱線を顔、手に受け泣きながら避難するお婆さんも沢山にいた。私くしはあの世の生地獄をこの世で見た感じがした。
〇広島車電区職員の被爆状況について元気な男子職員二名の手を借りて調査したら次の表のようになっていた。
重傷者 顔、腕、ヤケド 身に切りキズ 元気な者 計(名)
男子 一 七 六 二〇 三四
女子 三 四 一〇 一七
計 一 一〇 一〇 三〇 五一
※一名の重傷者 二〇名の負傷者 元気な三〇名
〇八月六日処置
一名の重傷者は戸板に乗せ、他の二〇名は歩かせて大須賀町の鉄道病院を廻り矢賀の広島工場診療所に連れて行き処置してもらった。矢賀到着時には重傷者は息が切れていた。※一名の殉職者は民家の軒下を借りて当日は二名で行った。他のヤケド切りキズの患者は処置後帰宅させた。
〇八月七日殉職者の火葬を実施した。
大八車に仏を乗せ六名で尾長山上の火葬場に運び町から運搬してきた材木を使用して火葬した。焼却後も主にお渡しした。
私しは原爆を体験し「今子供や次の世代に伝えたいこと」は声を大きくして次のことを申し上げたい。
「核兵器をめぐって世界の情勢は軍縮に向かうどころか拡散の傾向にあって厳しさが増す一方のような気がする。各国の指導者は考へるべきである。」
以上
|