原爆投下時にいた場所と状況
八月七日入市
広島県安芸郡昭和村大字焼山
国土防衛隊勤務が週交替制で、当日は明け番であり田舎の吾家にいた。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日国土防衛隊(兵役ではない)員となり、一週間交替の明番で吾家にいた。真夏日の明け放なたれた部屋で読書中。
(一)青白い光が眼に吸い込まれ読書を中断し眼を強く擦った。
(二)内臓をえぐるようなにぶい音がしばらくつづく。
(三)強風が音をたてて部屋には入り衝立を吹き倒した。
母の声で外に出てみると広島の上空(吾家から山をはさみ十三キロ位)に、ピンクと紫色のキノコ雲が天に立っていた。直感で毒ガスかもわからず、山に逃げようと判断したが、結局夕方まで雲は消えなかった気がする。
あの時の光景や出来事
八月七日~一四日 入市 救援活動をする。
八月六日 夕方村役場より至急広島に行くよう依頼あり。
所属する国土防衛隊とは、広島県安芸郡下、一六、一七才の青年で組織
宿舎は海田市町の小学校
隊員 一五〇名位
任務
(一)敵の落下傘部隊が降りてきたら竹槍で突く迎撃隊。教練のごとく練習した
(二)広島市内の木造住宅倒解作業
村の同僚九名と徒歩で暗い山道、矢野~海田市 まだ暗い三時頃小学校に着く。
八月七日、小学校の廊下は人の山で教室にも入れず、呻き声でいっぱいであった。
夏の朝が明けてはじめて見た光景は全ったくの地獄であった。
顔が見分けられない人、手、足などぐるぐる巻きで血だらけの人。
生れてはじめて見るむごたらしい光景。
校庭で見るに耐えられず震えておりました。
負傷した将校の号令で正気に戻り大本営跡へと向った。最初に片付けるためか、海田~向洋~広島駅 それから先は熱くて進めず引き返した気がする。
八月八日 海田~向洋~広島駅~広島城~大本営跡
どの道を歩いたか定かでない。
城の濠に兵隊さんの頭からの死体が散見された。
大理石で出来ている建造物は動かすことが出来ず。
馬の死体を焼いたおぼえあり。
帰り道福屋デパートあたりで、靴音が聞え多分八本松の練習場よりの部隊であった。
整然たる隊列で早駆けながら一糸乱れず西練兵場方面へと向って行くのをみて、頼もしいなと感じたことを思い出す。
此の惨状の復旧は兵隊さんしかいないと思ったからか。
八月九日~一四日
広島駅裏 東練兵場で救護活動
何故か海軍の救護所が出来ており、広い草むらの練兵場から負傷者を運ぶ作業であった。
思い出すこと
(一)タンカがないため雨戸ではこぶ 四人一組となる。
(二)朝方なくなった女の子、となりにいたおじさんが水を飲みたいと、よく泣いたと、むなしかった。
(三)耳のない人、布でおおってあるだけでタンカから下ろした時にわかった。
(四)何故か衣類をまとっていない人が多かった。
(五)食欲がなくなった。
(六)二日以降、慣れると手も洗わずにオニギリを食べた。
(七)神社の境内で死体を焼いた。一〇〇体位。
東練兵場以外での作業、定かでない。
作業中、空襲警報で防空壕の一番奥にとび込んでいた。ヤケドの恐さを知ったから。
八月一四日 暑いから水をガブガブ飲み、高熱、下痢となる。赤痢と診断され
八月一五日 田舎の避病院に入院していた。
どうやって来たか記憶にない。
八月一八日頃か、現在広島での地域で赤痢症状は赤痢ではなく原子症であると発表。即退院する。
一七才の生意気盛りで何んでも珍らしいもの見たさで世の中の出来事に興味があったが、八月七日だけは別であった。
むごたらしい地獄を見て、正視出来ず、早く忘れようとした気がする。
同僚とも以后その話は殆んど出てこなかった。
併し東京の生活では、あの日のことが焼きついており、広島第二県女の手記、桜隊のテレビ 丸山定夫、広島ノート 大江健三郎
何時も胸をうつものばかりであった。
今、此れを書きながら鮮明と云っていい程よく記憶にあったものが、思い出せなくなった。
帰省して当時の同僚と記憶を辿りたいものだと思ってもいる。
以上
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
大変有難いことに放射能の被害は八月一五日~一八日の間、赤痢患者と診断され高熱と下痢で避病院生活をしただけで今のところ異常はない。
(一)母も小生と同じく八月七日~一〇日広島にいた兄を探して何度か入市を重ね六五才癌でなくなった。
(二)兄は爆心地より二キロの地点に居たが(陸軍)奇跡的に助かった。五五才癌でなくなる。
当然癌体質と思われるので検診による予防を心掛けています。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
今度どの国でも核を使えば地球は大変です。
広島の何百倍の威力があるとか、及びもつきません。
(一)核の保有国よ即時全廃して下さい。
(二)核の実験すぐ止めて下さい。
訴え方でお役に立つことがあれば御指示下さい。
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