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被爆体験について 
内海 弘(うつみ ひろし) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 中国配電(株) 製作所(大洲製作所)(広島市大洲町[現:広島市南区大洲四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時、私は市立工業学校の二年生で学徒動員により、市内大洲町の中国配電(株)大洲製作所(現在の中国電力(株))に毎日出動していました。当日の天気は快晴で何時もと変わりなく、太陽がギラギと照り付ける真夏の朝でした。工場に入所して広場で八時からの朝礼が済み、持ち場の仕事場に入った後、その日の仕事の材料をもらうため、友達と二人で建物から出て約五〇メートル先にある別の建物に向かって歩いていた時、友達が上を向いて指差し「あれは?」と云った所を見たときパラシュートが目に入った。最初は先日と同様に『撃墜された飛行機から米兵が脱出しているのかな?』と思った。途端に「ピカッ」と黄色の強いオレンジ色の閃光がしたので、咄嗟に地面に伏せた。一秒か二秒して「ドカーン」と大きな音がして、辺り一面が真っ暗になり二メートル先が見えない状態であった。

しばらくして土埃の様なものが無くなり工場の建物が見えた時、工場は屋根や壁のスレートが飛び散り鉄骨になっていた。すぐ持ち場の仕事場に戻ったが、建物の中は「グシャグシャ」に破壊されており、上から物が落ちてきそうなので居られない状態であった。工場内にいた工員さんや、友達は皆んな「ガラスの破片」などで、頭や顔、手や足、身体中を怪我をして、血だらけになっている人もいた。クラスメートの一人は天井から「シャフト」が落ちてきて即死した。私は運良く、建物の外にいたのと避難が早かったため、怪我もなく助かったと思います。それから工場本部の建物内でクラスメイトが集まり、担任の先生から「被爆後の状況を確認するまで待機していなさい。」と云われ、一一時過ぎ頃まで待っていた。

担任の先生から「解散」と云われ、帰宅する時「『海軍工廠の監督から新型爆弾と思われるので、市中心部には近寄らないこと。』と注意があった。」事の伝達がありました。自宅は舟入川口町でしたが、隣町の舟入幸町へ帰る友達がいるため二人で自宅方面に向かった。大洲町から東大橋を渡り、東雲町にある母校に寄って昼食の弁当を食べた。それから、御幸橋まで行ったが千田町側が燃えているので近寄れなかった。結局、干潮の時間を待って川を渡ることにした。しかし、川の水かさが深く歩いて渡る所がないので、川沿いに宇品の方に土手を歩いていた。川には死んだ人が一〇人位浮いて流れていた。それから、しばらくして干潮になったので、靴を脱ぎズボンの裾を巻くり上げ、宇品町から吉島町に歩いて渡った。当時あった吉島の飛行場滑走路北側を横切り、刑務所付近から対岸の舟入町の七軒茶屋(現、舟入高校入口)付近まで、兵隊さんに渡し船に乗せてもらった。

舟入町に上陸して我が家の方向を見た時、火の海になっていた。友達の家も私の家より北側でもっとひどかった。二人で避難場所の江波山方向に行くつもりであった。その時「弘ちゃん」と云って、叔母(父の妹)が近寄って来た。そして叔母から「孝ちゃんが未だ帰っとらんので、探がしとるんよ。」と聞かされた。その時、空は日が暮れかけていた。おそらく、午後六時半を過ぎていたと思います。叔母と一緒に弟(次男)を探すため、友達とその場で別れた。叔母は宇品町の自宅から電車で牛田町の祖母の所に行く予定であったが、電車が鷹の橋付近を通過中に被爆したそうで、鷹の橋から一番近くの我が家に避難して来たそうです。

それから、弟は舟入国民学校へ行ったまま行方が分からなくなったので、先ず学校へ行くことにした。学校に行く途中、運よく近所の人と出会って「内海さんではないですか。」と声を掛けていただいた。「はいそうです。」と答えると。近所の人は「学校の前に居られる、Aさんから『内海さんの子供さんを預かっています。学校内で死んだ人など五~六人いた中に未だ脈がある子がいて胸に『内海孝の名札』を付けていたので、内海の子供さんと分かった。自分の家に連れて帰って治療をしている。内海さんに伝えてほしい。』と云っておられた。」と聞いた。早速、Aさん方に行って『お礼』を云って「弟を連れに来ました。」と云ったところ、Aさんは「今は動かせない。カンフル注射をしているが、意識は戻っていないので明日連れに来て下さい。」とご指導をいただいた。数日後、弟が元気になった時に聞いた話ですが、被爆時は朝校長先生に用があり廊下で待っている間、後側から窓ガラスの破片を受けて、後頭から首にかけて負傷した。頭の皮膚下にはガラスが入っていた。(弟は平成四年一月にリュウマチ性肺線維症で他界しました。当年五八才でした。)

それから、父母達が避難している江波町のBさん宅に行った。父は被爆時には、仕事で河原町の知人宅に行っていた。玄関先で話しをしていた最中に被爆した。建物の下敷きになり、首の近くに怪我をしていたが、既に止血していた。母は自宅で便所から出た時に廊下で被爆し、建物の下敷きになったが、出やすい所であったため一人で這い出したそうです。腰を強く打撲していた。その時、母は妊娠八カ月であった。妹と弟(三男)は擦り傷もなく元気であった。一晩、Bさん宅でお世話になった。

翌朝一〇時頃Bさんのリヤカーをお借りして、Aさん宅に行きお礼を云って、弟(次男)を身受けし「もうろう」としている弟をリヤカーに乗せて、叔母と一緒にリヤカーを押した。妹は国民学校の一年生であったため長く歩けず、時々リヤカーに乗せて行った。父母は怪我をしているため弟(三男)を連れて、ゆっくり歩いて行くと云って私達とは別行動であった。行き先は、牛田町の伯父(父の兄)宅であったが、被爆の翌日であったためリヤカーが通れる道が限られ、江波町から舟入国民学校前のAさん宅を経由して、電車通りを北に向かい、住吉橋と明治橋を通り鷹の橋を経由、紙屋町を通って牛田町へ行くつもりでしたが、途中から電車道が電柱など倒れていて通れなかった。仕方なくUターンして鷹の橋まで戻り、比治山橋から比治山側の土手筋を通り広島駅前に出た。市役所前では、兵隊さん達が沢山死んだ人を山のように積んでいた。焼く準備をしていたように思う。また、市役所近くでは三~四箇所あったが、一つの防火水槽の中に二~四人の人が全身黒焦げになり『仁王さん』のように両手を上げ目を剥き出し立っている状況は、地獄に行った様な感じであった。私は思わず頭を下げた。その時、私達家族は無事であったことに感謝した。

駅前では勤労奉仕の小母さん達が「おにぎり」を被災者に配って居られた。一つづつ「おにぎり」を貰って食べた時の美味しかった事は、今も忘れる事はできません。駅前からは饒津神社を経由して牛田町に入った。伯父宅に着くと、直ぐに弟(次男)を寝かせた。父母達もしばらくして無事に着いた。それから約一週間して弟(次男)もぼつぼつ歩けるようになった。父も二週間ぐらい静養していたが元気になり仕事を始めた。そのころ、父と私は牛田に残り、母と弟妹達は母の里の甲奴郡上下町へ行った。八月の末頃、父は仕事の疲れと風邪を引いて寝込んでしまった。そのうち、原爆症が出て頭の毛が全部抜けた。喉には腫瘍ができて、食物が食べられなくなった。父が床に伏してからは、母が牛田に来て看病した。私は父の床には近ずけてもらえなかった。

九月七日朝早く寝ているところを起こされて、父が死亡したことを聞かされた。床に伏して初めて父の顔を見た。私は我慢できず泣いた。我が家の菩提寺は市内堀川町で全焼したため、牛田町の安楽寺にお願いしてお経をあげてもらいました。当時は死んだ人が多いいため、牛田公園が臨時の火葬場になっていた。夕方、牛田町内会の人達により牛田公園で、父の遺体を火葬してもらった。翌早朝、父のお骨を貰った後、安楽寺で戒名をもらった。そして翌日、母と私は父の遺骨を持って上下町の祖父母方に行った。そこで母は、末の弟(四男)を生んだ。それから母は私達五人の子供を、女手一つで育ててくれました。末の弟も今年五〇才になりました。私達一家は、祖父母方で翌年の三月までお世話になった。

 

 

 

  

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